盛夏明けて

 

HIP HOPの春の時代

 

私的感覚のみならず、2018年の今はまさにそんな状況にある。

 

日本ではラジオパーソナリティにも随分ラッパーやMCが増えた。
そして増えただけでなくそれを売りにして広く聴取を訴えている。
個人的には目にしないがテレビの企画でも盛況らしい。

 

私はちょうど32歳の今になってこの些細な記録をはじめるに至った。

 

今よりももっと若い私に指針を与えたものは当然ヴィジュアルと、そしてテクストだった。
だった、というのは私の活字離れの吐露である。
最近はめっきり文章を読む機会が減ってしまっている。
これは個人的な思考の不摂生と、責任逃れが許されるならば時代の影響(せい)である。

 

長らく私はこの文章のように気取った言い回しも、回りくどい表現にもうんざりしてしまっていた。
これは世のライター職にある御仁の功罪と、ヴィジュアルで勝負している負けん気があったからだろう。

しかしなぜ今になってキーボードを叩き始めたのかといえば
よく言われる「ヴィジョンの言語化」「ストーリーの提示」のための一環である。

 

作品に付帯して求められる言説。
活動を本格化するに当たって私は子供染みた憧れの「黙して多く語らず」のスタイルをあっさり撤回することにした。
それが正しかったかどうかの判断はまずは十年後の2028年に委ねることにする。

 

私は元々は作品に求められる言説に懐疑的であった。

 

もちろんそれは作り手のエゴとして「ほら、見ればわかるでしょう」という傲慢さが半分と
手品師がネタバレして、仕掛けを思いついたことを「すごいでしょう」と吹聴して回る卑しさを嫌ったのが半分くらいかと思う。

 

目に見えるものを制作しているならば、目で見て伝わるはずであるし
それで伝わらないのはその作品のクオリティが低いからだ、という安易なヴィジュアル至上主義とでも言おうか。

 

経験上、この段階を経ていない作家がいるとすれば大変な聖人だと驚嘆する一方で
そんな聖人の作品はきっとつまらないであろう、と断定することができる。
とにかく私にはそういった浅はかな考えがあったことは事実だし、今はもう考えを改めたことも事実である。

 

随分言い訳染みてしまったが、こういった経緯で私は私の考えることや作品についての解説など
許される限りざっくばらんにここで記していきたいと思う。

 

ここから見る未来はそれほど暗くない。
ひとまず2020 TOKYOが鼻息荒く控えている。
しかしその後は暗転していてほとんど測れないような状況にみえる。

 

ことにアートに関していえば大衆化は進むだろうが、まるで学校教材のように無毒になるのではないかという危惧はある。
しかし毒も強いだけでは存えまい。

 

いざキーボードを叩いてみると新鮮な気分になれた。
これを読んでいるのか値踏んでいるのか知らないが付き合ってくれた方にも感謝する。

 

次回はもう少し具体的なことを記したいと思う。

 

2/Sep 2018
さお