例えばそこに川があって、その川の向こう岸を「川向こう」なんて呼んだりする。
たしか神奈川県の川崎の由来は「川先」(かわさき)で、東京側から見て川の先の方にあることからそう呼ばれたようだ。
これは単に地理的、地形的な特徴をもってそう名付けたり呼んだりしたものだが、自らの暮らす日常にも川向こうのような遠巻きに眺めるだけの別世界が存在していることを時折強く感じる。
慣れ親しんだ地域や人、駅、道、店、食事のメニュー、格好などなど。
人間は自分で思っているよりも狭い範囲で暮らしていることが多い。
その方が効率的だし、必要もないのに広げたり新しくすることは相応の大変さや危険を伴うことがある。
必然的に価値観や感性も自分の土壌に標準を合わせるし、限定的故にその生活圏でのサイクルの精度を増すことができる。
つまり狭いことは悪いことではないし、合理的だし、必然的なことだ。
しかしひょんなことから突発的に日常に非日常が入り込むことがある。
するとある日突然、今まで知りもしなかった世界の一端が姿をあらわして無作法に入り混じってくる。
そこではこれまでの「普通」が普通でなかったり、「あり得ない」が当たり前だったりもする。
自分のペースやリズムといったものを維持することが難しくなり、調整を余儀なくされる。
これは疲労や苦痛を伴う場合が多く、目的や理由がない限り歓迎されるものでは決してないだろう。
各々が各々の異分野、異世界を川向こうに置いて、存在を遠く認知することで牽制して「その他」のカテゴリに乱暴にしまい込む。
封じ込めるといってもいい。
閉鎖的な認識と閉鎖的な認識同士が、互いに互いの独善のルールをもって断罪する。
こういう悲しいことが防衛本能と相まって当然のように起きている現実がそこそこある。
感傷的な文章を無理に広げて結局は「わかり合おう」などと生温くて生臭いことを言いたいわけではない。
具体的にはアート作品が「アート業界」だけでぐるぐる回って良いとか悪いとか言われるだけで消費されていくことだったり。
自動車にしても、化粧品にしても、洋服にしても、「わかる人にはわかる」で終わってしまうことに対する危惧である。
もちろん、音楽にしても建築にしても小説にしてもお笑いにしてもスポーツにしても同列である。
私のいる此岸にも轟く響きや衝撃を、彼岸のそれぞれがぜひ届けてほしいと願っている。
というよりもそこからがスタート地点であるはずだ。
あらゆる分野のそれぞれは、その成果において川向こうの異界の住人にも届けて知らしめなければならない。
自己満足で何が悪いか、という開きなおりを少なからず見聞きすることがある。
それは私のような夢想家に向けた反論として、あるいは実際にそう思って生きている人々の畏憚無き心情としてあらわれるのだろう。
私の態度としては、自己満足で満足できる人ならばそれでいいでしょう、と同意したい。
それに反論することは他人の趣味にケチをつけたり、他人ん家の晩飯に文句をいうような無礼だ。
「自己満足で終わるな」というのも私自身の「自己満足」に他ならない。
他人に対して何かを求めることは本来の目的を見誤ることにつながりやすい。
川向こうとの交信は言うなれば宇宙や冥府との交信に程近い。
オカルトな話をしたいわけではないが、実際問題それに近いようなことは多い。
つい最近私は私の体験の中で川向こうを見た。
そこは私の元々の価値観とはだいぶ異なる秩序によって成り立っている世界だった。
しかもそれは元々の私の日常と背中合わせにあり、単に私が知らないだけで当たり前にそこにあった世界だった。
私の経験が半分くらいしか役に立たず、私の配慮が半分も通用せず、私はその場においてまさに新参者であった。
ある意味においては新鮮で、だいたいにおいて居心地の悪いその場の不慣れな力学はしかし安定して発揮され、私の知らないところで別の日常を築き上げていた。
詳細についての説明は省くことにするが、つまり私が作品を作るある晩には一方で全く別な行動をしている誰かがいて、
私が私なりにやり切った気分に浸っている朝方にも他方誰かの一日がそこから始まったりしているということだ。
それを想像できない人は少ないだろう。
しかし現にあらわれるとなれば噎せ返る人がほとんどだろう。
未だ知らぬ川向こうの人々に対して、私は彼らを知らないくせに届けたいものがある。
異文化、異分野、異世界の各人に対して大見栄を切れるほどの何物かを作り上げる必要がある。
川向こうにとって、こちらもまた川向こうに他ならない。
不思議なことにそういう意味ではむしろ近しいように感じる。
いくつもの川の向こう岸に向けて、私を知らない私も知らない誰かにも向けて、発信を続けたいと思う。
9.Oct 2018
さお