人間とは思えない

手が二本あって、先端に指が五本ずつ。

足も同様、形状や大きさこそちがうが構造は近しい。

目玉が二つ、鼻が一つ、口も一つに耳は両サイドに一個ずつ。

そう、私のことである。

否、私のことというよりも、人間のことである。

肌はベージュ、髪の毛は黒い。

瞳は黒く円く、虹彩の開き具合などでフォーカシングできる。

関節には弾力性のある骨が使われており、可動範囲はおよそ150度、屈伸させることで様々な行動を可能にする。

私は私の身体の設計についてなんのアイデアも提供していない。

ただ可能な限り良い状態であるように多少メンテナンスを施し、苦楽を共にするだけである。

私は人間であるから周囲の別の人間についてもそれほど違和感を持たない。

しかし私は自分が人間であることに違和感がある。

私は腹が減ることに疑問がある。

眠らなければならないことに文句がある。

時折込み上げる性的衝動を不思議に思う。

私は人間であるが、人間であることを不思議に思うし、疑いようもなく受け入れるには人間はいろいろありすぎる。

私に形があるとして、今の私の肉体や表情やヘアスタイルなんかがすなわち不純物の混じらない私そのものであるかと言われたらだいぶ怪しい。

むしろ、純・不純物の塊のように思う。

私の全ては私以外のものや設計思想、環境的要素で作られている。

私の肉体に私がかけられる圧力といえば多少の節制による体重管理と、髪の毛なんかの長さやまとまり具合である。

私が私に対して出来ることは多くない。

学術的には「なぜ私は私だろうか」というような疑問は、若い、初歩的な自我自己認識のステップなのだろうか?

歳を負う毎に自己同一性を獲得していき、寿命が尽きるころには自分は自分として死んでいくのだろうか。

この手足が、この髭面が、この猫背が、私を外的に識別する上での特徴であることは確かにそうだ。

ふざけた色調のメガネや、これ見よがしのブーツや、臭い隠しの香水も、きっと私を他者と識別する上で役に立つことだろう。

しかし思うのだが、他者と自分を識別する必要はそれほどまであるだろうか?

私は単に「他人でない」ことで私でいられるのだろうか?

あるいは私もまた「他人とは変わらない」ことで人間でいられるのだろうか?

きっとその両方のバランスを小狡く使い分けることで「私」と「人間」との間を行ったり来たりしているのだろう。

「人間」というのは、私もそうだし、これを読むあなたもきっとそうだから、そういう意味での同類のよしみはあるだろう。

一方で、よしみがあるとするなら憎しみもあるだろう。

人間として人間を愛し、人間として人間を憎むことは、そのこと全体が人間として普通にあることだろうと思う。

仮に宇宙人から見た私は地球の人間だから、私の考えることはすなわち地球の人間の考えることに分類されるであろう。

人間のうちの一人、人間のラチチュードの一点、あり得るパターンや現象の中の一つ。

私は夜眠るけども、私自身はできれば眠りたくなどないのだから、眠ることは人間としてであって私としてではない。

私はご飯を食べるけども、これは私の好みを中心に選んでいるので人間の生理的欲求として仕方なく食べているのではない。

そして現代ではほとんどのセックスが、子孫を残すためにするわけではないだろう。

ざっくばらんに埒もない話をしてきたが、結局私は私の原形質が人間であるとは思えないです、というお話である。

他方やってることや感じることから考えると、人間であるとは思えないけども、人間ではないとも思えない。

しかしながら私は私であると思う。

私は私が私でないとは思えない。

私はたぶん人間であるが、私は私で間違いない。

8.Mar 2019

さお