マックス・ウェーバーのプロ倫

社会学の幕開けとしても有名なマックス・ウェーバー著作
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で扱われる予定説について思うところがあった。
これは経営学にも関わる有名な本なので知っていると思う。
 
概要としては資本主義の始まりを告げたのがキリスト教プロテスタントの禁欲的生活や精神による蓄財に端を発するという社会学的な説だ。
 
 
中世16世紀、宗教改革にまで遡る。
当時キリスト教カトリックが成熟を超えて腐敗していた。
有名な免罪符などを市民に売りつけて不正に儲けたりしていた。
これに敬虔なキリスト教徒市民は不満をつのらせ、カルバンやルターといった指導者と共に新たなキリスト教宗派プロテスタントの成立に至った。
ここで唱えられた特に二つの要素が資本主義の引き金になったと説明されている。
 
 
 
 
それが召命倫理と予定説。
 
召命とは元々聖職者に適用される神学的概念で、神に授けられた使命の事。
具体的には聖職に就いて、それが使命でありそれだけがあなたの人生であるという価値観。
つまり職業選択の不自由、職業の神学的専門化を保証する概念だ。
プロテスタントが成立してルターはこれを一般市民の職業にも敷衍した。
つまり元々敬虔なプロテスタントの教徒は神学的に職業選択の自由を廃止した。
 
予定説とは神は既に最後の審判で天国へ昇る者と、地獄に堕とす者を決めている。
つまり人々の運命はあらかじめ決まっているとする神学的概念だ。
カルバンのは特に二重予定説と呼ばれ、救済と破滅の両方がすでに神によって決められていると唱えた。
これは一般的には神の主権と人間の自由意志の関係性について論じられる。
これはカトリックにもある概念だ。
 
 
しかし、特にこの予定説について非キリスト教圏のアジア人にはほとんどピンとこない。
まずこの概念は神の主権が前提にあるためと思われる。
世界をどうのこうのしようと人間を煮ても焼いてもそれは神様が決める事、という前提だ。
神は全知全能であり、神が間違える事はあり得ない。
故に神の意思によって世界の始まりから終わりに至るまで全てが神の意思によるものだ。
この世界観の中で、人間の自由意志はどういう役割があるのか?
これはいくつか派閥があって、自由意志も神の予定の一部とする考えと自由意志によって神の恩寵を得るためとする考えがある。
 
いずれにせよ神の主権、神の全能性が前提となり、全能であるという事は間違える事はあり得ず全てに神の意志が宿るという考えから、未来についても神の意思によって既に決まっており、
救済されるべき人間も破滅に導かれる人間も神の全能性によって定められているというこの神学的な感覚は、非キリスト教圏アジア人の自分とは全く異なるものだと思った。
 
 
翻って予定説を物理学的に見ると決定論がある。
決定論とはビックバン以降あらゆる過去現在未来は物理法則と各原子の働きによって既に決まっているとする考えだ。
もう少し神学に寄れば運命論とも呼べるだろう。
人間の運命は予め決まっていて、いつ死ぬのか、どんな風な人生を過ごす事になるのかも自由意志によっては動かし難い原理原則によって遠い昔から決まっているという世界観。
これなら大抵の非キリスト教圏アジア人は考え方の理解は出来ると思う。
ちなみに現代現時点では原子の振る舞いは完全に予測は出来ない事とされている。
いわゆるラプラスのデーモンも量子力学によって否定される。
 
 
 
この召命倫理と予定説(決定論)により、人々は孤独を植え付けられひたすら真面目に働き清貧を守ったために財産が生まれ、財産がある一定を超えた所で資本主義的力学に置き換わり宗教色は薄れ現代の資本主義となった、というのがマックス・ウェイバーの説だ。
 
孤独を植え付けられる、というのは予定説によって神の恩寵にあずかるために真面目にやってもやらなくても自分の運命は決まっている状態に押し込められた教徒たちの心理は、何をやっても変わらないとしながらもより勤勉で清貧に向かってしまうという解釈だ。
自由意志が役に立たない状態にも関わらず、教徒は進んで信仰を先鋭化させる方向に走る。
召命倫理によって世俗的な労働についても神の勅命のような意味合いを持ち、これにより労働の信仰的な価値も高まりより勤勉さを増していく要因となった。
結果、手をつけない財産が築かれ、この財産があるためにある時を境に資本主義的力学に変換された。
 
 
 
 
プロ倫の説明はざっとこんな所だが、特に予定説の違和感について話したい。
神はある一部を救って、一部を破滅させるという。
これは俺の考えではあまりにもケチだ。
神の名を持って全権を振るえるのならば、善人も悪人も犬や猫も救済すべきだ。
これが出来ないのであれば神ではないし、神であっても信じるに足らない。
出来るのにやらないのであれば妙な政治性を持っているし、一個の精神でしかないのではないか?
一個の精神であるとすれば、我々人間とさほど変わらず、見上げて崇め奉に及ばない。
共に肩を組んで酒を飲むならまだしも平伏す程のものとは思えない
第一、世界も人生も全てが決まっているとするなら、今すぐ俺が海に向かって駆け出しても決まっている事で、山に向かっても決まっている事と言うのだろう。
予め全てが決まっているとすればむしろそれが自由だ。
なぜなら何をやっても俺の意思でないと強弁しつつ、人をぶっ殺すことも救うことも今その時の俺の考えで実行できるからだ。
そしてそれが善であれ悪であれ運命に過ぎないのであれば、俺はその責任を全く負うことなく傍若無人に自由を駆け回ったとしても誰が文句を言えようか?
もし明日死ぬ運命にあったとしても、今日の生き方にそれは影響しない。
もし死んだ先に地獄があったとしても、今日何を食べるのかに影響するだろうか?
決まってるなら好都合、全権を譲り渡そう、俺は世の中を運命に従って漂うだけの者として、
運命に沿って好き勝手に歩ませてもらおう。
 
こう考えてしまう。
 
俺の好きな曲の冒頭の歌詞に
 
「誰もいないなら ふざけた声で返してよ」
 
というものがある。
これが全く決定論に対する俺の態度と同じ事を言っている。
親しい間柄で周囲に人の気配がない時、真面目に呼びかけるのはあまりにも普通だからどうせだからふざけて面白いようにやってくれよ、という趣旨だ。
ここでプロテスタントなら「誰もいない」状況は起き得ない。
なぜなら神が常についているからだ。
そしてプロテスタントの敬虔さは誰もいなくても敬虔でい続ける事が使命だろう。
俺は神の恩寵を求めないから誰もいない場合がある。
誰も見ていない場合もある。
人間には信念があるし、その態度もある。
しかし誰も居ないならそれを下ろしても曲げても別にいいよね、というこの歌詞の呼びかけ。
自分が自分だと固く信じ込んでいたとしても、ある瞬間ある隙間ではそうじゃくてもいいよね、というように聴こえる。
つまりこれは自由意志の作用できる隙間について歌っていると解釈している。
あるいは自己同一性の不一致の許容。
 
予定説や中世の神学は必死にこの隙間を亡きものとして認めないスタイルだ。
神の絶対性、神の主権、神の全知全能には一つの間違いも許容されない。
俺は俺であるが、誰も居ない時にはふざけて変な声出す変な奴になったっていい。
そしてその一瞬があり得るなら、あらゆる物事の変化の引き金を引くことは許されていると。
この歌詞のように思っている方が楽だな、と思った話。
 
 
プロ倫持ってたら貸してくれ、ではまた。