Photoshopと哲学について

分けるはわかる、という言葉がある。
物事を理解するというのは、その物事を何かしらの要素やカテゴリに分解、分析、分類する事、という意味だ。
 
このままのタイトルの本や分類学といったものもある。
はたまた量子力学のハイゼンベルクの著作にも「全体と部分」という本もある。
 
これには心当たりがあった。
 
 
写真は一枚、古い言い方では一葉と数える。
現代のデジタル写真ではPhotoshopをはじめとしたレタッチソフトウェアを活用する事は前提として制作される。
 
一枚の写真を作るに当たって一枚撮ればいいわけだが、実際には何十枚何百枚何千枚と撮る事もある。
その中からベストと思われるものを選んだり、あるいはそれらの部分部分を掛け合わせたりする。
そしてそれをPhotoshopで扱う場合のディレクトリ構造をレイヤーと呼ぶ。
マスクや選択範囲という部分を選択する機能を使い、部分と部分で全体の調和を図る。
Photoshopにおける部分の最小値、物理における原子的な役割はピクセルでありビットマップデータと呼ばれるパーティクル(粒子)構造だ。
 
Photoshopは千を一にするアプリケーションだ。
あるいは一を千にするアプリケーションでもある。
 
ここで野菜炒めをつくろう。
 
一個のフライパンで一気に各野菜を炒め始めてもおいしい野菜炒めが出来上がるだろう。
野菜炒めをPhotoshop概念で作るとどうなるか。
野菜毎、あるいは火の通り具合で分類された野菜はそれぞれ別々のフライパンで炒められる。
フライパンはそれぞれの野菜に適した種類の金属が要され適した形状が選択される。
火加減もそれぞれに微調整して備長炭、ガス、圧力鍋など最適化される。
使用される食用油も植物油やオリーブ、あるいはラードなど使い分ける。
最後は一つのフライパンで炒められるため、火にかかるタイミングもそれぞれ秒単位で異なる。
こうして完成した野菜炒めは、全く同じ材料を使ったとしても違った味わいと風味をみせるだろう
 
Photoshopがやっている事は基本的にはこのひたすら選択肢を再定義する分解作業だ。
フライパン一個では限度がある。
フライパンを百個用意すればそれぞれ適した扱いが出来る、これにより高度なクオリティーを再現できるようになる。
 
分けるはわかる、アリストテレスも基本的には分類して答える。
本質は何か問い、四つの要素に分けて説明したりする。
スコラ学派の聖人トマス・アクィナスは感情を11に分類して神性を解いた。
 
 
 
宇宙統一理論の完成を阻んでいるのは量子の振る舞いだ。
世界を分け入って分け入っていくとどうなるか。
超ひも理論という名前は聞いたことがあるだろう。
宇宙が実は11次元だ、という噂も聞いたことがあるかもしれない。
これは何を言っているのかも、分けるはわかるに関わる認識論だ。
 
まず幾何学の概念を利用しよう。
ユークリッド幾何学における点とは、幅も面積も持たない。
点の大きさを計算に入れて面積を算出したりはしない。
線も同様に、線は太さ、面積を持たないとされている。
 
我々のいる三次元空間でノートにえんぴつで書かれた点があるとしよう。
点に限りなくクローズアップしよう。
机スレスレまで顔を近づけて見たら、ノートに書かれた点にはユークリッド幾何の概念と違って面積があるように見える。
それは当然だ。
点は鉛筆で描かれており、鉛筆の芯は太さを持つから点を描いたつもりでも鉛筆の芯未満の太さの点は描くことは出来ない。
 
そこで顕微鏡を使ってもっと近づいて見てみよう。
顕微鏡で点を見ると、何やらそのエッジはギザギザしているようだ。
直線や真円ではない。
鉛筆で描かれたのだから当然だ、歪な形状をしている。
概念としての点に面積はなかったはずだが、顕微鏡でみるとむしろ形状まで持っているようだ。
元は点に見えていたものには形状があり、二次元の奥行きを持った事になる。
倍率を上げるために電子顕微鏡に変えよう。
電子顕微鏡で倍率をさらに上げると、何やらひだ状の起伏さえある。
つまり二次元的形状に留まらず奥行きを持った立体物だったのだ。
鉛筆で描かれた点が立体物だとは誰も思っていない。
しかし、倍率によっては立体物に間違いない。
 
このようにして最小値や最小構成物質と思われた物にも実は奥行きがあり、それを構成するさらに小さい要素が発見される。
次元が増えるカウントはこのようにして行われる。
点に見えた物が形だったわけだから次元が増えたという説明だ。
 
 
 
あまりにも小さい世界では、あまりにも高速で電子が回転運動したりしている。
そしてそれを観測するのが我々人間である限り、側にいるだけで質量として空間をわずかに歪ませてしまうような感覚で観測者として影響してしまう。
量子の振る舞いは、位置を捉えれば運動量が算定されず、運動量を算定すれば位置がわからないというものだった。
これが有名なハイゼンベルクの不確定性原理だ。
量子から銀河、過去から未来まで貫く統一理論は科学の悲願だ。
これもあらゆる物理系力学系を分解分類しまくって完成されていく事だろう。
 
分けるはわかるの理屈はPhotoshopも同じ性質を持つが、中世のスコラ学派が煩瑣哲学(はんさてつがく)と揶揄されるように単にイタズラに要素を増やすだけでは複雑化するだけでかえって自滅するのも同じだ。
木を見て森を見ず、兵法にもつながる摂理とも言える。
音楽では全体ではなく部分でとらえ、その部分と全体との調和に対してクオリティーを感じたりする。
才能とは人の見えない部分までコントロール出来る力かも知れない
 
 
 
 
以上、最近は中世哲学に興味が向いてます。
中世キリスト教社会では千年ほどの長きに渡って論理的に神性の説明をつける人々がいました。
その代表格がスコラ学派と呼ばれるもので、彼らはキリスト教由来でアリストテレスと融合していきました。
これもそのうち、では。