クオリティーの形而上学 #2

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前回、現実社会ではクオリティーは部分であり、必要に応じて出したり引っ込めたりするものである実態を知った。
 
一方でロバート・M・パーシングのクオリティーの形而上学ではクオリティーこそが物事の本質であると語られている。
まずはクオリティーの再現性について反証を試みよう。
 
 
クオリティーは科学的に観測可能で再現可能であるとしたら、誰でも取得可能という前提となる。
そして経験的学習的にクオリティーに関わる要素を集め、機械的還元論に基づいて全容の理解に到達すれば誰でもベートーヴェンのように作曲が出来るという事となる。
ベートーヴェンが作曲した曲Aと曲Bを分析し要素に分解して組み直し、新たな曲Cを作る事が可能だ。
そしてクオリティーが本当に制御可能であるとすれば、曲Cはベートーヴェンに勝るとも劣らないクオリティーを持って生み出す事が出来るはずだ。
そしてクオリティーが科学であるとするなら、それらを生み出すのは私であってもあなたであっても可能で、望んで条件さえ整えば誰しもがベートーヴェンになれるという事だ
 
 
もし上で述べた事が事実であるとするなら、なぜベートーヴェンはいつまでも特別のままでいられるのだろうか
クオリティーは観測可能で再現性があるとすれば、ベートーヴェンの発展系が開いてベートーヴェンの楽曲は遠く過去のものになるはずだ。
しかし現実には依然としてフランス革命前後の楽曲を「西洋芸術の最高傑作」と位置付けている。
交響曲第九番は音楽史上初めて交響曲に独唱と合唱を加えた作品だ
これが革新的であってクオリティーの本質であるとしたら、同じように合唱を付け加えればよいのではないだろうか?
 
 
物事はそう簡単に出来ていないようだ。
経験的学習的にクオリティーが高められていくとしたら、常に最新の作品だけが最高の地位を占める。
過去の作品はクオリティーの媒介として役割を終えて誰も見向きもしなくなる。
なぜなら学習的に発展したクオリティーを持つ最新作品の方が素晴らしいはずなのだから。
実際には我々は色んな時代、色んな地域の作品をいつどこともなく親しんでいる。
そして最新の作品が最高の作品である事に同意する人は極僅かに限られるだろう。
 
ビジネスの場における大きな勘違いは名曲を学べば名曲を書ける、名画を学べば名画を描ける、名作を学べば名作を書ける、クオリティーは観測可能で再現性を持った科学であり、あとはコストと納期に見合った方法を選択するばかりだ…という無知と傲慢さにある。
目に見えているのなら手を伸ばせば届くはず、という安直な認識でクオリティーの本質を見誤っている。
実際に我々が過去の作品を讃えているのは歴史の礎となった慰労からではなく時空を超えたクオリティーに対する賛美に他ならない。
先祖を偲ぶように過去の作品に敬意を払って丁重にもてなしているわけではない。
今ある他の作品と並んでもそれが依然として素晴らしいからだ。
 
 
現実に基づくとどうやらクオリティーを持った作品からクオリティーの要素を抽出して新作として作り変えても同様のクオリティーを持った作品にはならない。
平たく言えば名作を単にパクっても名作にはならない。
クオリティーからクオリティーが生み出せないとしたらそれは再現性の否定である。
再現性を持たない以上、クオリティーは科学とは言えないのだ。
科学ではないとしたら任意に学習する事はできない。
再現性の反証に基づいてクオリティーの定義は以下のように書き換えられる。
 
 
・クオリティーは再現性を持たない
・故にクオリティーは科学的に証明出来ない
・クオリティーは時空の隔たりに左右されない
・時空を超える以上、個人の趣味趣向の範囲を超える
 
 
こうして見るといよいよ形而上学の雰囲気が高まってきたようだ。
クオリティーはその特徴を積極的に拾い上げて実体をつかもうとしても難しい。
クオリティーとは何か、は概ね反証によって明らかになっていくだろう。
前回、現実社会ではクオリティーは部分であり、必要に応じて出したり引っ込めたりするものである実態を知った。
 
一方でロバート・M・パーシングのクオリティーの形而上学ではクオリティーこそが物事の本質であると語られている。
まずはクオリティーの再現性について反証を試みよう。
 
 
クオリティーは科学的に観測可能で再現可能であるとしたら、誰でも取得可能という前提となる。
そして経験的学習的にクオリティーに関わる要素を集め、機械的還元論に基づいて全容の理解に到達すれば誰でもベートーヴェンのように作曲が出来るという事となる。
ベートーヴェンが作曲した曲Aと曲Bを分析し要素に分解して組み直し、新たな曲Cを作る事が可能だ。
そしてクオリティーが本当に制御可能であるとすれば、曲Cはベートーヴェンに勝るとも劣らないクオリティーを持って生み出す事が出来るはずだ。
そしてクオリティーが科学であるとするなら、それらを生み出すのは私であってもあなたであっても可能で、望んで条件さえ整えば誰しもがベートーヴェンになれるという事だ
 
 
もし上で述べた事が事実であるとするなら、なぜベートーヴェンはいつまでも特別のままでいられるのだろうか
クオリティーは観測可能で再現性があるとすれば、ベートーヴェンの発展系が開いてベートーヴェンの楽曲は遠く過去のものになるはずだ。
しかし現実には依然としてフランス革命前後の楽曲を「西洋芸術の最高傑作」と位置付けている。
交響曲第九番は音楽史上初めて交響曲に独唱と合唱を加えた作品だ
これが革新的であってクオリティーの本質であるとしたら、同じように合唱を付け加えればよいのではないだろうか?
 
 
物事はそう簡単に出来ていないようだ。
経験的学習的にクオリティーが高められていくとしたら、常に最新の作品だけが最高の地位を占める。
過去の作品はクオリティーの媒介として役割を終えて誰も見向きもしなくなる。
なぜなら学習的に発展したクオリティーを持つ最新作品の方が素晴らしいはずなのだから。
実際には我々は色んな時代、色んな地域の作品をいつどこともなく親しんでいる。
そして最新の作品が最高の作品である事に同意する人は極僅かに限られるだろう。
 
ビジネスの場における大きな勘違いは名曲を学べば名曲を書ける、名画を学べば名画を描ける、名作を学べば名作を書ける、クオリティーは観測可能で再現性を持った科学であり、あとはコストと納期に見合った方法を選択するばかりだ…という無知と傲慢さにある。
目に見えているのなら手を伸ばせば届くはず、という安直な認識でクオリティーの本質を見誤っている。
実際に我々が過去の作品を讃えているのは歴史の礎となった慰労からではなく時空を超えたクオリティーに対する賛美に他ならない。
先祖を偲ぶように過去の作品に敬意を払って丁重にもてなしているわけではない。
今ある他の作品と並んでもそれが依然として素晴らしいからだ。
 
 
現実に基づくとどうやらクオリティーを持った作品からクオリティーの要素を抽出して新作として作り変えても同様のクオリティーを持った作品にはならない。
平たく言えば名作を単にパクっても名作にはならない。
クオリティーからクオリティーが生み出せないとしたらそれは再現性の否定である。
再現性を持たない以上、クオリティーは科学とは言えないのだ。
科学ではないとしたら任意に学習する事はできない。
再現性の反証に基づいてクオリティーの定義は以下のように書き換えられる。
 
 
・クオリティーは再現性を持たない
・故にクオリティーは科学的に証明出来ない
・クオリティーは時空の隔たりに左右されない
・時空を超える以上、個人の趣味趣向の範囲を超える
 
 
こうして見るといよいよ形而上学の雰囲気が高まってきたようだ。
クオリティーはその特徴を積極的に拾い上げて実体をつかもうとしても難しい。
クオリティーとは何か、は概ね反証によって明らかになっていくだろう。