クオリティーの形而上学#3

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クオリティーには再現性がなく、クオリティーからクオリティーを再生産する事はできない。

クオリティーは科学的ではない。

 
故に経済活動に組み込もうとしても無尽蔵な手間と時間を要求する上に結果は確約されないのが通常だ。
これでは経済活動に活かす事は難しい。
仮にクオリティーが計画生産できるもので、その程度も自由にコントロールできるのであれば経営計画や資金調達の自由度は格段に上がるだろう。
つまり高い金を積みさえすれば必ずいい物が手に入る世界になる。
もし高い金を払えなくても金額に適格なクオリティーを調達する事もできる。
あらゆる芸術は傑作が途切れる事なく生まれ続ける世界になるだろう。
 
しかし現実にはクオリティーは非科学的で金と時間をかければ手に入るものではない。
だからこそ経済活動から見れば投資に対して及び腰になるのも致し方ない。
故にクオリティーは経済活動にとって部分として扱われるのだ。
本質をクオリティーに置く事はギャンブルにも等しい。
ギャンブルにリソースの全てを注ぎ込むわけにはいかないだろう。
 
世間一般的にクオリティーは全体に対する部分である。
それは重要視されながらも非科学的であり不経済であるために部分としてしか扱い切れないためである。
 
 
ではむしろクオリティーなど切り捨ててしまってはどうだろうか?
つまりクオリティーゼロで事業や生活を営めば済む話ではないのか
今回はクオリティーがゼロだった場合から反証を試みる。
 
ハサミを例にあげよう。
ハサミのクオリティーがゼロだった場合どうなるだろうか?
ハサミにはハサミの命題や指向性が備わっている。
すなわちハサミにはテーマがあって、テーマに対する達成度がクオリティーである。
クオリティーがゼロとは切れても切れなくてもいい状態だ。
切れ味が悪かったり逆に切れすぎて危なかったりあるいは偶然ちょうどよかったり、あるべき指向性を放棄した状態がクオリティーゼロだ。
大きさ、材質、右利き左利き、色、デザイン、用途、価格、流通経路…ハサミに関わる具体性の一つ一つを定めるものを何と呼ぶべきか?
経済活動では「生産計画」とでも言うだろうか。
具体性を定めるもの、これクオリティーにあたる
描かれるクオリティーによって切れ味は求められ、連動してクオリティーによって他の各具体性は定まっていく。
切れても切れなくても重くても軽くても赤でも黄色でもいいハサミとは存在し得るだろうか?
クオリティーがゼロとはこの状態で、具体性を決定付けない限り存在すらしていない。
クオリティーゼロの実在は実現困難である事からも、あらゆる具体性を決定付けるものがすなわちクオリティーなのだ。
 
「具体性を定める」とは簡単に言えば絵を描いて下さいというお題に対して、どんな絵をどんな大きさや画法で描くのかを決める事だ。
おにぎりを作る時に形や大きさや海苔の有無、中の具材を決めようとする時に働く力だ。
これはクオリティーがゼロだとしたら何も定まらず存在できない事からの反証だ。
しかし我々はもっと簡単にクオリティーゼロについて想像する事ができる。
クオリティーゼロとは人為の及ばない自然環境やその状態のことだ
あらゆるものが成り行きまかせでほったらかし。
強いて言えば自然環境を司る自然法則こそが厳格なクオリティーで、常にどこでもその指向性を覆すことはあり得ない。
 
そして重要なもう一つの要素が指向性だ。
つまり何に向けての、誰にとってのというクオリティーの向きについてだ。
これは次回詳述する事にする。
今回得られた結論は以下のようにまとめられる。
 
・クオリティーがゼロとは物事の成り行きに意思を持たないこと
・クオリティーは物事の具体性を定める力
・自然環境が自然環境であろうとする力、宇宙が宇宙であろうとする力もクオリティーとして理解する事ができる(仮説)
・クオリティーには指向性がある
 
今は高次の思考展開が必要とされる局面だが、これらの整理が済めば低次のシンプルな概念で説明されるだろう。