クオリティーの形而上学 #3.1

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禅とオートバイ修理技術の下巻より、改めて納得のいった言説をスピンオフ的に書き残す。
 
著者のロバートさんは作中で「客観主義」を悪きものとして度々糾弾している。
そもそも主観や客観の概念は西洋哲学由来の言葉で、現代では一般的に用いられる言葉となっている。
ロバートさんは客観主義の何が気に入らなかったのだろうか?
 
作中はバイクの修理を例に具体的な説明が長らく続くが別な例をあげよう。
作中には客観主義と共に合理主義や理性に対する言及も多くある
例えばあなたはハンバーガー屋さんで、ハンバーガーを作って売っている。
それはとてもジューシーなパティの物でもいいし、バンズにこだわったり野菜の新鮮さにこだわってもいい。
これはあなたのクオリティーに応じて具体化される。
しかしここで客観的合理主義で理性的資本主義の友人クロサワが店に立ち寄ってアドバイスをくれた。
 
「もっとたくさん売るには食べログに出稿した方がいい」
野菜が新鮮でも結局はみんな肉肉しさを求めているはずだから無意味だ」
「コストから見れば売上に貢献してるとは言えないから、パティを合い挽きに変えて牛脂を混ぜる方式に変えればコストは30パーセントカットできるぞ」
「もっと複数の店舗を展開しなければ利益を増やす事はできない」
「アボカドが流行だから、とにかくアボカドを使ったメニューをすぐに増やそう」
 
これは友人クロサワはあなたを陥れるためでもないし、完全に好意で上述のアドバイスをくれた。
しかし、彼の中心に浮かび上がってくる思想は、資本主義であり合理主義、店主であるあなたのクオリティーの指向性よりも売れる事や利益を増やす事を優先すべきであり、しかしこれは理性的で客観性に基づいた事実である…のような考え方に基づいている。
 
本来あなたはあなたのクオリティーに従ってハンバーガー屋さんを運営したらいい。
しかし合理的で理性的で客観的である事を正しいと信奉している友人クロサワや銀行、投資家、および世間や社会は、なるべくコストを下げてたくさん売るべきであると考える。
それが資本主義社会において正しい振る舞いで、そのためには合理的に売りたくないアボカドメニューも当然売るべきだ、と。
 
あなたがその助言を受け入れて合理的理性中心主義に立場を変えた時、クオリティーに関する手間や費用はなるべく省きたいと考えるようになる。
クオリティー主義者だった頃のあなたは、ハンバーガー屋さんで自分のクオリティーに基づいたハンバーガーを作って売る事が本質であったから、それにかかる手間や費用は本来的で意味のあるものだった。
しかし合理的理性中心主義に立場を変えた時、手間も費用もなるべく圧縮したいと考える。
これを突き詰めればマクドナルドを目指す事になるはずだ。
そしてマクドナルド化したあなたは、ハンバーガーをどう作るかよりもいかに合理的に売って利益を高めるかを中心に考える実業家に転身させられているのだ。
こうなってしまってはクオリティーは理性に従うべきものとして、全体に対する部分でしかない事になる。
 
 
作中でロバートさんは
「本来理性はクオリティーに従うべきだったが、いつしかクオリティーと理性は分断された」
と語っている。
そしてこうなってしまった原因に悪しき客観主義があると書いている。
つまり一所懸命おいしいハンバーガーを作ればいいのに、その事を友人クロサワのように客観視してしまう現象だ。
ただの傍観者が投げかける「それ意味あるの?」「それ儲かるの?」「もっと合理的な売り方あるよ?」などといった余計な客観的理性中心主義だ。
 
理性や合理性が信奉されると賢い事が目的化し、資本主義社会では金を稼ぐ事が目的化する。
本来はハンバーガー屋さんは夢のハンバーガーを、車メーカーは夢の車を、一次産業なら日々の幸福と満足な出来の作物を求めるのが順序だ。
そのために理性や合理主義、客観的観察は利用されるべきであって、つまり夢があって夢の実現のために策を労するべきであって、
労するべき策ばかりが発達しても行き先はないのに段取りばかりがスムーズな奇妙な世界が展開してしまう。
ロバートさんの説くクオリティー主義は単に理性と合理性ばかりが追求された価値観に異を唱えるものだ。
 
なぜ理性偏重合理性偏重がおこるのか?
それはクオリティーを持たないからだ。
クオリティー=物事の具体性を定める力であるなら、何か自身に能動性が無ければ発現しないだろう。
つまり人生に目的や夢を持つ事があれば、その達成のための手間や時間や費用であり、
それらがなければ省くべきコストでしかないだろう。
夢のために超えるべき試練は本来的なコストであって意味のあるものだ。
目的もないのに試練があっても無駄な苦労でしかなく、出来れば避けたいと願うのが普通だ。
 
ここまでで振り返るとロバートさんの説くクオリティーはすなわち「内的能動性」であり、平たく言えば目的や夢だ。
内的能動性があれば世界の全てはチャンスとヒントに変わり、手間や苦労も必要な試練だ。
内的能動性がない人々が、つまり上位にあるクオリティーを持たない人々が下位にある理性を偏重するのは当然だ。
主観が際立って無いとしたら、客観ばかりが先鋭化するのも当然だ。
内的能動性がない人々は理性と客観が先鋭化した結果、いかに合理的であるかの競争を始めてしまったのだ。
 
合理主義の極地には何が待ち受けるか?
反出生主義や優生学、生きている事の無意味を説くような思想だ。
なぜなら生まれて死ぬ事に明確な意味を見い出す事は難しく、全部がまるで始まりから無かったように忘れられていく世界の様子を知ってしまえば余計に無意味が際立つだろう。
だから我々は合理主義を極めるわけにはいかない。
極まった合理主義は反社会的であるにも関わらず、社会はひたすら合理性の評価を中心に据えている矛盾。
年収や学歴はまさに理性と合理性のアピールと言えるだろう。
 
 
悪しき客観主義とは内的能動性を無視した理性と合理性の評価のこと。
内的能動性=目的や夢があるとすれば、その達成のために理性と合理性は扱われるはずであり、目的化された合理性とは様々な面で異なる。
合理性が目的化され、その競争がおきているのは多くの人々は内的能動性を持たないと推測できる。
無いだけなら無害だが、それが無いために理性と合理性のデッドレースを始めてしまった。
いかに合理的か、つまりいかに楽してたくさん儲けるかが指標となり、それが能力の評価として扱われるようになった。
しかし彼らは究極的には金を稼ぐことさえ目的ではない。
合理主義と社会体制がその結果を求めるだけで、彼らは自らの行き先をまだ知らないのだ。
 
 
何が価値かを自ら定め、何が意味かを自ら定める。
物事の具体性を定める力=クオリティーというのは私の持論だが、ロバートさんのクオリティー論とも齟齬がないように思う。
理性はクオリティーに従うべき、というのも理解できる。
理性がクオリティーを従わせてしまっては、納期とコストと効果ばかりが求められてそういった勝負にはビジネス的な布陣が必要となる。
私は長らくこの図式の中で闘ってきたが、勝てないのも当然だった。
合理主義の闘いでだからだ。
それが正しいとしたら、クオリティーを持つクライアント=内的能動性を持ったクライアントを探すべきだろう。
目的のために手段を探しているよきクライアントに巡り合いたいものだ。