平たいバージョン

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平たく言う自己紹介含めたバージョン

使えるかに関わらず砕けたディテールをお伝えします。
 
 
 
価値は人が定めるものですが、価値が人を定める実例を。
2001年ディオールオムのローンチ、クリエイティブディレクターを務めたのがエディ・スリマンです。
当時彼のコレクションは鮮烈で、あれもこれも全部が斬新でカッコよかったです。
今や定番のローライズのスキニーパンツはここに原形があります。
 
僕は彼のコレクションはすごいな、クオリティーが抜きん出てるな、と思いました。
当時高一か高二くらいです。
もちろんファッション誌やコレクションの季刊誌を読んでるに過ぎませんが、実際に吹き荒れるエディ旋風を僕も感じていたのです。
 
エディのルックはすごくいいけど、何がすごいのか?何がいいのか?何が違うのか?
考えた結果リアリズムの思想があるからすごいんだな→リアリズムがすごいんだな、と子供じみた分析をしました。
リアルクローズというワードがよく使われていた時期でもあります
これは僕がと言うよりもすごく東洋的だなと思うんですが、ファッションなので外側から感じた価値をより知るために、リアリズムという内側から探ろうと考えたのです。
結果、リアリズムについての本を探します。
インターネットはありましたがiPhoneはまだありません。
リアリズムの中でも特にストイックなリアリズムを学び、エディを捉え、最終的には超えられるようにしようと息巻いています。
今は大人なのでわかるんですが、当時私が欲しがった体系的な思想が描かれた「リアリズム」の本はきっと今も存在しません。
葉隠とか五輪書みたいなものを求めていましたが、あるのはせいぜい新書で見られるハウツー的なものでしょう。
 
リアリズムを超えるリアリズムを追求したい僕は「超現実主義」というワードで検索しました。
結果「超現実主義入門」という本があったのです。
これ幸いとすぐに買いました。
著者はアンドレ・ブルトン、フランス人でした。
さあ読むぞと読み進めていくと何やら様子がおかしい。
クセを効かせた洒落た言い回しはするものの、支離滅裂な芸術論が展開します。
そうです、ブルトンはシュルレアリスム運動の立役者で、超現実主義とは「すごく現実主義」ではなく超越的現実主義、僕が求めていたリアリズムと真逆の芸術活動に関する本を買ってしまったのです。
 
エディに憧れリアリズムを感じ、リアリズムを学ぼうとしてシュルレアリスムに到達するこの落語みたいな流れは実体験です。
重要なのは当時十代の僕がエディのコレクションに価値を認めた事です。
僕はまだガキで当然素人なので目利きではありません。
僕の認識が正しいために価値を認めたというよりも、エディのコレクションに価値があってそれが僕にも伝わった、と考える方が自然です。
この順序が重要なんですが、僕が価値を決める前にエディのコレクションには価値はあったという事です。
僕の中で価値を決めたわけではないのです。
 
エディのコレクションは僕が認める前に価値があって、価値があるから学ぼうととしてリアリズムに傾倒していくわけです
人が価値を定めるのではなく、価値が人を定める実例です。
ちなみにエディには師匠はいますがアカデミックなファッションの学習はしていません。
体系的なファッション教育の外からやってきた異邦人です。
 
 
 
プロフェッショナルの実情において、昨今のクライアントは理性的な合理主義に取り憑かれています。
それに加えて日本の企業の多くは合義的な意思決定に頼りきりです
これは責任を分散させたり最悪の結果を回避する事には確度が高いですが、革新的で斬新な展開を望む場合には相応しくありません。
顧客の反応に怯え、周到な言い訳を用意して、統計的なデータを元に戦略を立てる。
企業活動は創作活動ではないので違いは理解しますが、いいものは学習的経験的には作ることはできません。
企業の責任者が自ら感受性を持って判断する事が必要です。
根拠や前例なしにロジックを組めない彼らは感受性を失ってると言わざるを得ません。
感受性を持たない合理的で合義的な意思決定では、既視感のある冴えない結果ばかりが積み重なっていくのです。
 
 
 
現代アートシーンについて。
有象無象のクリエイター、もしくは一発当てたい輩が山のようにいます。
彼らはセンスもあるし賢いために適切なフォーマットの作品を作ります。
一部プロはいますがだいたいが素人のくせに、です。
作品はそうでもないのにフォーマットが正しいと、未熟さと頭でっかちさが目立ちます。
これは正しい言語で中身のない話をされている事に等しいです。
僕の言う中身とは履歴や歴史です。
創造的なプロセスとは例えば三角形を思いついたとして、これではつまらないな、と考えたとします。
じゃあ赤い三角形にしてみよう、とか長い三角形にしよう、みたいな足跡を辿ります。
最終的に最初に思いついた三角形に戻ったとしても、そうではなかったパラレルな三角形を否決した上で完成と呼ぶわけです。
Aという案で行くならBもあるよね、と思考は連鎖するわけで、そのプロセスの中で正解を選ぶわけです。
これはどの分野の創作もほぼ同じだと思います。
これは経験があれば作品をみてそのプロセスを辿ったかどうか何となくわかってしまうものです。
これをしていない作品は軽んじられても仕方ありません。
完成とは呼ばないし、始まっているかも怪しい状態です。
思いつきの勝負ではないのです。
思いつきを検証するのが創作的な義務なのです。