スポーツの形而上学

スポーツは古代エジプトや中国、メソポタミアにも記録がある通り、古くから営まれてきた文化だ。
定住に至るまでの人類にとっては生活とスポーツは伴するところが大きかったように想像されるが、
生活とスポーツが分離して専門化してからもすでに歴史は長い。
現代においてはスポーツは実用性と完全に分離して専門の興行を行うなどの形態も多く、またアマチュアにおいても多くの人がそれぞれの目的で参加している。
 
スポーツに注目すべきは、理性と経験を超えてルール(信仰)に埋没することで合理的な判断を超えた結果を得ることが少なからず見受けられる点にある。
脊髄反射のような電気的な処理速度に近い瞬間的な判断の中で、忘我に近い思考の超集中が計算的な妥当性を物ともせず気持ち一つで実行される。
そのプレーが自他の予測を超えるものであったり、合理的な再現性のないプレーが発生したり、瞬間的に時空とイデオロギーを超えた存在になる。
間に合うから走るのではなく、間に合わせるように走る時、その選手は物理的法則を超えて忘我の彼方の四次元をかすめボールに辿り着いているように見える。
これを可能としたものが単に身体能力や才能だけではなく、信仰やマインドによって不可能を捻じ曲げたような感動がある。
 
すなわち、演繹や帰納だけではそのボールは捕まらず、信仰に埋没したプレイヤーのマインドこそがそういった超次元的なプレーを生み出し、スポーツに感動と華を添えるのだ。
全てが計算の上でトランプのように出したり引っ込めたりしているだけの戦いだとしたら、いかにもつまらないものになって廃れていたに違いない。
スポーツは形而上のマインドと形而下のフィジカルの融合すべき場所といえる。
そしてそのどちらが欠けてもスーパープレーは生まれず、スパープレーのないスポーツは遠からず廃れることだろう。