純粋合理性批判

心臓の動かし方を習った事はあるだろうか?

あるいはアルコールの分解の仕方や汗のかき方でもいい。
親や先生が丁寧に教えた結果、成長と共に取得した技術ではないだろう。
 
では同様に脳の働かせ方はどうだろうか?
あるいは意識の使い方と言い換えてもいい。
心臓は生まれる前から鼓動を打ってフル・オートマチックに稼働している。
脳や意識だけが自由意志を持ち、マニュスクリプトに機能していると言えるだろうか?
意識が心臓のようにオートマチックに稼働しているとしたら、善悪は立ちどころに消えるしかないだろう。
しかし意識がオートマチックではないと言えるだけの証拠もないのだから、善悪もひとまずは無いと言うべきが神妙な態度ではないだろうか?
 
残念なことにそんな塩らしさを持つ善良な人間はただの一人も存在しない。
どの角度においても神の存在をねじ込むアブラハムの宗教にしたって、善悪の判断は存在したのだから。
神が常に最善解を与え続ける世界において、つまり最高最善の神におけるオートマチックな世界でさえもしていい事と悪い事があった。
知恵の実を食べるのか、もしくは神の言いつけ通り食べないでおくのか選べるからこそ食べることにした人類に対して神は怒り楽園を追放して死を授けた。
旧約聖書において人の祖先は自由意志を持っていた事になっている
 
死刑判決を受けるような凶悪犯罪者は、あるいはノーベル賞を受賞するような立派な人生を蹴ってまでも犯罪行為を選択したのだろうか?
スポーツにおけるスタープレイヤーは、スタープレイヤーである事を選択したに過ぎないのだろうか?
あるいは意識も心臓のようにオートマチックで、それは運命論を肯定するような決まった道筋を手放しに辿るだけが人間の存在の仕方だろうか?
 
このように意識はマニュスクリプトかオートマチックかの判断は難しい。
天体は物理法則に厳密に従っているのに、人間だけが無軌道で自由に生きられるとするには疑問が残るし、アインシュタインも当初は局所実在論として実質的な運命論を支持した。
現代では量子学において局所実在論は否定され、必ずしも決まり切った振る舞いだけをしない事が確認されている。
それでも人間の意識はマニュスクリプトであるとするには尚早だ。
実際に世間を見渡しても、社会や大衆が自らの意思と判断で行動してるとは言いがたい。
まるで機械的な論理によって運命と自由意志の最大公約数を求めるような生き方が大勢だ。
当人たちの自覚ではそれは理性的な合理性と呼ぶべき必然であろう
 
このような世界の芸術の役割についてニーチェの処女作「悲劇の誕生」に様々な考察が見られる。
この中でギリシャ神話の神、アポロンとディオニソスの二元論的な芸術論がメインとなるが、超訳を試みればアポロンが意識でディオニソスは無意識として語られている。
つまり秩序や意識が支配的な中で、ギリシャ的な芸術は無意識を渇望してるとされる。
ディオニソスはワインを伝承したとされる神で、無頼で直情的な豊穣と酩酊の神である。
簡単に訳すと人々の意識の底には悲劇が眠り、これを払拭するためにはディオニソス的なパワーが必要であると言う。
ディオニソス的な力とはすなわち無意識や人智の跳躍、つまりは狂気の肯定だ。
 
意識が抱える問題はいくつかある。
まず第一に意識は孤独であること。
すなわち意識がマニュスクリプトで、自律的な設計や選択を前提とした個体としての自立であるとすれば、それは本質的に他者との別離を意味する。
自由であるが故に意識であり、他者とは異なる故に意識であり、この前提は必然的な孤独を生む。
第二に意識は利己的であり合理的で当然の選択だけを支持する。
意識が結果的に判断を誤る場合も多々あるが、単純に生存確率を高め自己が有利な状況になるような判断しかする事はできない。
自らを不当に不利な状況に導く判断をする事はない。
いわゆる理性的な合理主義だ。
第三に意識は己の限界を悟って諦観してしまう。
第二の問題と重複するが、意識は合理的だがちゃんと非合理な選択も見えてはいる。
知恵の実を食べた場合を想定できるが、本来の意識だけでは合理的な理由で食べられない事を残念に思いながら諦観するのだ。
つまりエバが知恵の実を食べる事は甘美な狂気の誘いのためだった
あるいは約束された楽園からの脱出を夢見たのかも知れない
すなわち当選からの脱却である。
 
この他にも意識は自覚的な問題が数多くある。
例えば古来より人間同士の親睦会では酒を飲み交わす。
まさにワインの神ディオニソス的習慣と言えるが、これはすなわち意識と意識の疎通よりも、互いに酩酊による忘我、無意識と無意識の接触を持つ事でより一層親密さを増す。
これは互いの理性的で自律的な選択だけでは対立が避けられず、無意識による共感や意識の拡張によって対立を避ける手段となるのだ。
互いが酒を飲み交わし馬鹿になる事で、理性的で合理的な個々の利己的判断を遠ざけて共同体的な錯覚を得る。
無意識同士の触れ合いが意識同士の触れ合いよりも優位なのだ。
 
これがさらに跳躍を見せると、狂気と呼ばれるものに変わる。
プラトンが著述を始めたのは親戚であり師であるプラトンが民衆裁判によって有罪判決を受けて、脱獄可能な状態でありながら自らの判断によって毒杯を飲んで亡くなった事により始められる。
ソクラテスが見せた非合理性はプラトンに限らず衝撃であった事だろう。
なぜなら自ら生き延びるために手段を尽くすのではなく、仕組まれた裁判によって出た判決に自ら従い、死を選んだのだから。
まさに狂気と呼ぶべきソクラテスの意識は人智を超えたものに見えたことだろう。
ソクラテスが見せた狂気がプラトンに火をつけ、現代に至るまでのプラトニズムを作り上げる事になったのだ。
もしソクラテスが利己的で合理的な判断によって脱獄して生き延びたとすれば、プラトンの意識には特別な何かは現れなかったかも知れない。
 
芸術の目指すところ、扱うものは意識とその外側である。
上述したように意識がする働きは平凡で当然で安全で退屈なものだ
美しい音だけを並べただけでは美しい曲にはならない。
もしもこれを芸術と呼ぶなら人口の半分は芸術家になれるだろう。
芸術は意識の外側を目指し、すなわち無意識を使役し、当然を避け安全を回避し偶然を歓迎して必然に至っても尚それらを煮えたぎった釜にぶち込み道なき道を行く。
それは満ち足りた合理性に反抗するためである。
満ち足りた合理性ほど退屈なものはない。
芸術が反戦論を扱うのは何も尊い善性によるものではない。
軍備増強や力による支配はあまりにも満ち足りた合理性であり耐え難いほど当然で退屈な選択だからだ。
誰にだってわかるような当然を大真面目にやるのは、野暮を超えて悪と言わざるを得ない。
意識それ自体が悪ではないが、意識は当たり前のこと以外に出来ない。
意識を超越した狂気なくして芸術とは言えないだろう。