芸術と狂気、合理主義と野暮について

2025年、現代における芸術の意味は単に消費者の興味を惹くマスコットではない。
仮にマスコットとして腕を振るったとしても彼らは芸術の深淵より表面的な効果を評価したのであって、私は認識や自意識を投影するスクリーンとして評価しただけの違いだ。
立場の違いで扱い方が違うのであって、芸術の汎用性を示す実例として評価できる。
 
私の扱う芸術論は例外を設けず、視覚芸術のみならず音楽やテクスト、あるいは宗教や哲学や宇宙論に対しても統一的で一様だ。
というのも世界の中で分類上の仕切りを設けるのは古くはアリストテレスが作った習わしであって、あるように見えるカテゴリやジャンルの仕切りは人間の認識上の分類が実態であって実際に丁寧に分割されて別室に控えているわけではないからだ。
カテゴリによって別々の慣性系や力学を扱えるほど器用でも賢くもないのが実際のところだ。
マグリットに対してもアウグスティヌスに対してもクレヨンしんちゃんに対しても態度を変えられる余裕はない。
 
私の創作的な使命はまず狂気の研究。
狂気とは合理主義を超えた執念、理性を超えた意識、強権的な無意識。
狂気の宿るところにこそ人間の本性が込められており、私に限らず多くの人は魅惑の狂気を無視することはできない。
人類史を紐解くとあらゆる時代、あらゆる地域において狂気の痕跡が見られる。
紀元前2,500年に建造されたギザのピラミッドにしても、単なる合理的な墓場としてはあまりにも巨大であまりにも大事業だ
様々な事情や背景があるにせよ、ピラミッドを思いついたとしてそれを他人に伝え理解を得て王の承認に漕ぎ着けるまでの過程でさえ狂気的な執念無しには説明できない。
あの時代の合理主義者は異論を唱えたはずだ。
まだピラミッドが存在する以前に誰かが思いついたこと、実行に至るまでにナラティブな根拠を並べ立てたこと、その了解を得て巨大な国家事業として実行達成したこと。
権威的な象徴として巨大建造物の発想が同時発生したとしても、あそこまで緻密でプリミティブな設計を辿ったのは奥歯が砕けるような信仰心と狂気的な執念無しには存在しなかっただろう。
 
個人の芸術作品においても同様に狂気を鑑賞する。
つまりキレイな色のキレイな形をキレイに並べるだけでは何のクオリティーも持たない。
キレイな音をキレイに並べるだけでも曲にならない。
意識や理性による合理的な判断でアートを作り上げることは不可能ではないが、そのようなアートはまるでリハビリの回復報告のような明朗さのアピールでしかない。
私は元気です、私は健やかです、私の人生はこんなアートを描くように幸福です…政府主導の芸術関連事業は社会福祉の側面が強くさながら脅迫的な幸福報告のようだ。
狂気を含んだ作品はむしろ嫌厭されるだろう。
一般的なアート市場においても同様のくすんだ空気が蔓延している
つまり購買者がアートを買うということ、アートを買うことで人生を豊かにすること、独自の価値観が客観的に保証されること。
人生は楽しく奥深く、色んなスタイルがあってどれも素敵で素晴らしく、身近にアートを置くことは感性豊かで知的でセンスが良い…
ほとんどの購買者は合理的な理由でしかアート作品を購入しない。
彼らは芸術家ではないのだから当然だ。
間延びした壁を飾るインテリア、殺風景なエレベーターホールを生花より面倒がなく間を繋ぐもの、絵を飾る習慣を利用した自覚的な社会階層の再生産。
あるいは資産や財産として考える場合が最もわかりやすいが、いずれにしてもマニアでもない限りは合理的な理由がある。
もしも家を売って食事がもやしや納豆に限られても作品を買うようなマニアは、買われた作品とともに興味深い狂気の体現者と言えるだろう。
ちなみにマニア(mania)の語源は「狂気」を意味するギリシャ語のμανίαに由来する。
 
私が狂気の研究を重視するのは、通常や尋常を超えた人の行いや作品にこそ感動や恍惚が引き起こされるためだ。
合理的で当然な作業だけでは芸術の真価は発揮されない。
これは宗教においても同様な価値観が散見され、仏教では苦行や日々の修行によって悟りを得ようとするし、
中世キリスト教者は清貧と純潔を守ることが自然状態に反して狂気的と言えるし、イスラム教ではラマダンが苦行として有名だ。
いずれも安穏で安楽な状態では極まった感覚や仏性、神性を得られないというのが根拠であり、芸術を鑑賞する大衆の態度としても自ら耳を切り落とすようなゴッホの狂気を好んで絵を眺める。
あるいはアメリカのシリアルキラーとして有名なジョン・ゲイシーのピエロの作品がカルト的に好まれるのも、作品が彼の狂気のスクリーンとして覗き込むような気分なのだろう
このような洞察から導かれる結論としては、芸術は狂気の被造物であり、狂気とは通常の意識や理性、合理性を超越した感覚、あるいは無意識の領域における人智の跳躍…
これらの超常的な行動や思想、感性によって作り出された作品に対する畏敬の念が芸術の持つ威厳であると結論できる。
 
私がセールスマンであり、これらの理論はバックストーリーとしてナラティブな手法による芸術の価値の釣り上げを尽くしているわけではない。
芸術に関わらず平面幾何や天文学の研究にしても、単に生まれてから死ぬまでを和やかに過ごすようには発展しない。
知的好奇心や功名心などによる執念、執着と呼ぶような狂気のリレーの結果、体系的な学問として成立をみたのだ。
宗教も同様に狂気的な執念や探究心が元となっていることは明らかであり、単に社会的な安定や思想的統一の道具としてのみ成立したわけではない。
もし治世的で合理的な理由だけで宗教を作り上げたとしても退屈な経典しか作られなかっただろう。
まず狂気的な開祖や一部の集団があり、彼らが世界の真理を探求し説明することで魅力的な理論や世界観が出来上がり、治世はそれらの文学的で芸術的な魅力を利用したと見る方が正確だろう。
 
学問や科学、医療や宗教のいずれにしても、そうした方が得だから進化していったわけではない。
そうした方が祖先に役に立つからとか、現代ではそれが商売になるからとか、理解できるから理解しておこうとか、そういう理性的で合理的な判断によって今があるのではないことは、私が熱を持って語らなくとも理解できるはずだ。
もっと根本的で切迫した状況や人間の内側から込み上げる衝動がガソリンであり、楽しくて得だから進歩させたのではなく、狂気的執念によって命を賭して身を削りながら手にした真実が形となっている。
つまり芸術に限らず狂気が進歩させてきたことに疑いなく、芸術だけが「有意義な日曜日の過ごし方」を提案しているようでは目を惹かないのは当然だ。
それゆえに優れた芸術は等しく狂気的であり執念によって作り上げられ、偏執的なこだわりやパーソナルな囚われが独自の作用を生み、芸術特有の威厳を持って人々の意識に投影されることになる。
 
 
第二に、狂気を評価する一方で非難されるべきは理性や合理主義だ。
現代では概ね理性的で合理的な判断は正しく、いかなる場面でもそのようにあるべきだと思われている。
仮に合理的に作られたピラミッドがあったとしたら、おそらくあんなにも巨大であることをまず阻止される。
もっとコストと時間が重要視され予算も期間も短縮されるだろう。
伝記や伝聞上だけ水増しすればどうせ検証しようがない。
巨大建造物が権力の威光を発すればよいのだから、もっと大きさだけを効率的に見せつけるデザインに変更されるだろう。
その結果建てられるピラミッドが現代のように謎めいて魅力的であるかは、むしろ存在し続けられたかさえも甚だ疑問だ。
天文学にせよ海洋上の航海術に役に立てばそれでよく、宇宙の真実を暴く必要はない。
別に宇宙について知らないからと言って死ぬわけではなく、知っているからと言って何か直接的に得するわけでもない。
同様に芸術も世界のゆとりや緩慢さを表現できればそれでよく、誰の作品であろうと褒めちぎって多様性を評価した方が平和的だ。
みんながみんなの作品を褒め合ってコミュニケーションのきっかけにでもなれば十分だろう。
画材が一定数売れて、芸術賞がたまにインセンティブを提供して、スポンサーの社会貢献がアピール出来る興行やイベントと紐づけられれば申し分ない…
 
このように合理主義者は無駄とランダム性を嫌うためにあらゆるものは定式化されコンテナに詰め込まれて積み上げられる。
現代のYouTubeのコンサルティングが指揮するように需要や動向に合わせてワードやテーマを選択し、作りたいものを作るのではなく見られそうなもの、需要の高いテーマをコンスタントに一定の品質、一定の間隔、一定の量で制作する。
彼らの挙動はアルゴリズムに順応し続け、さながら物理法則のような秩序を読み解くデジタル世界のニュートンが訳知り顔でタクトを振う。
合理主義者にとっての創作は自らのアイデンティティーや発見に基づくものでなく、ペルソナやアルゴリズムに支配されている。
作る役割を演じるタレント業であり、言いたい事も特になく、読解や順応こそが彼らの腕の見せどころとなる。
彼らにも狂気や執念があって、合理的であることに人生を捧げ合理的であることの正当性を信仰している。
つまり合理主義者は潜在的に狂気的な合理性信仰を持ち、合理性以外の発想や手段を受容出来ない。
 
合理主義の最たるものは戦争であり、戦争は満ち足りた合理性によって引き起こされる。
つまり相手より強い武力を保持して自分にとって有利な外交条件を引き出すこと。
これは子供でも発想できるわかり切った合理性だ。
満ち足りた合理性とは百人いたら百人がそう答えるような当然を実行する野暮であり、本来なら個々の矜持によって回避すべき禁じ手を平気で使うような連中の思想だ。
合理主義者はつまり野暮で、極まった野暮は悪と違いがない。
故に最も芸術に反する思想と見ても誤りであるとは言えないのだ。
 
 
私は結局人間の狂気と、その狂気の甲斐を見たいのだった。
合理的に整った正しさではなく、合理性を逸脱した驚愕を望んでいるのだ。
偏執的な人間の独自の辿る道すじを、執念だけが見せる山頂の景色を、こだわりがもたらした功罪のドラマを。
合理主義を嫌うのはそれがいかにも野暮で偏執さを矯正してしまうからと言えるだろう。