『ストイケイア』シリーズ 概要とストーリー

ユークリッド原論(英名:Elements、古代ギリシャΣτοιχεῖα, ストイケイア)は紀元前300年頃、プトレマイオス王一世の治世した頃に出版されたと推定される。
現在からおよそ2,300余年前となる。
ユークリッドその人の記録は限られておりはっきりとした特定は困難も多いが、古代ギリシャのアテナイ(現アテネ)に生まれプラトンが立ち上げたアカデメイアで数学を研究し、アレクサンドリアに移り原論やその他著作の執筆と研究を進めたとされている。
(ユークリッド原論追補版/訳·解説 中村幸四郎、寺阪英孝、伊東俊太郎、池田美恵/共立出版より)
聖書に次いで二番目に版数の多い本としても有名だが、出版後から現代に至るまで様々な人々に読まれ研究されて影響を与えてきた。
私もその中の一人であることを幸運に思う。
ユークリッド原論における内容の是非や正確さや誤りは私の手に余る事業だが、数学を苦手とする私がこの本に魅せられた根拠については拙くとも述べることができる。
 
私がユークリッド原論(以下ストイケイア)を知ったのは高校生の頃。
当時「現実主義」とか〇〇主義といった思想や考え方に興味を持った私はインターネットで色々なワードを検索したり関連する本を調べたりしていた。
若さが率いる好奇心と背伸びした知識欲だ。(あなたにもあった事だろう)
そんな中でストイケイアの存在を知り、第1巻の冒頭の定義の和訳を読んだ。
 
1.点とは部分をもたないものである。
2.線とは幅のない長さである。
3.線の端は点である。
4.直線とはその上にある点について一様に横たわる線である。
5.面とは長さと幅のみをもつものである。……
(同ユークリッド原論追補版/訳·解説 中村幸四郎、寺阪英孝、伊東俊太郎、池田美恵/共立出版より)
 
このようにあまりにもストイックで、あるいは当然のことが並んでいた。
「現実主義」について関心のあった私は、あまりにも無駄のない、あまりにも必然的な体裁に感激した。
私自身の能力の不足による内容の深淵や驚嘆すべき正確性の理解に乏しくとも、ストイケイアのとる形式(スタイル)そのものに奥深さがありありと表れていた。
一読にしてストイケイアに魅了されたと同時に、無知ながらもその重要性を察したのだった。
つまり見た目にかっこよく、形式にかっこよく、意味合いにかっこいいと感じてミーハー的な感性によって心酔してしまった。
 
このような原体験を持って、のちに写真を撮るようになってから自分の作品を作るにあたってストイケイアにモチーフを辿ることは必然であった。
同時に表面的なスタイルのみならず、深淵に迫らなければ十分な意義にならないと考え直すのも当然な年月が経った。
スタイルと内容、内外からストイケイアの理解と解体、再認識を進めた。
 
まず私は幾何学的な命題の証明と数学的意義については十分に正当であると仮定して、ユークリッドはなぜこんなにも周到に、こんなにも厳密に、こんなにも言葉を尽くして幾何の命題が真であることの証明に執念を燃やしたのか?と疑問に思った。
彼の証明のスタイルは正当である以上に正統であった。
彼が普段ストイケイアに見られるような煩瑣とも言える語数で厳粛な生活をしたのかはわからない。
しかしどう考えても日常や常人から乖離した狂気と偏執的なこだわりが表れていた。
つまりストイケイアは正統なスタイルを備えているが、それはいかにも用意周到で自然に無意識にそれに至ったとは思えない。
明確な意図があってスタイルを選んでいると推定できた。
それはなぜか?
時代や習慣や環境が要因ではあるにせよ、おそらくこう言いたかったに違いない。
 
『これは私が「思った」わけではない。
私が「正しいと思った」から正しいわけではない。
私がユークリッドで、私がアカデメイアで学び、私が特別な才能を備えているからではない。
明示した定義に沿って考える誰にとっても、もちろんあなたにとっても他の誰かにとっても、等しく同様に同一の解が導かれる。
もちろん2,300年後のあなたにとっても同じだ。
なぜならここに書かれた命題の証明は永久不変で絶対的な真理であり、私から見てもあなたから見ても同じ答えが得られる明確な客観なのだから。』
 
アートは見る人によっての個々の感性が尊ばれるが、ストイケイアで論ぜられる命題の解は誰にとっても同一であることが尊ばれる。
完全性を明示した客観の獲得だ。
誰かが「思う」「思わない」に関わらない。
例えば私が眠っていても三角形の内角の和が180度をサボることはあり得ない。
物理学でいう所の等価原理に等しい。
宇宙の真ん中でも端っこでも同じ法則が成り立つとされる法則だ。
これら客観性や等価原理を成立させるために偏執的な厳密さと厳格さが死守された。
私はここにユークリッドの狂気を見たし、ユークリッドの本音を聞いた気がした。
分かり合える者同士だけの世界であればストイケイアのようなスタイルは煩雑で冗長なだけにしか見えないだろう。
 
ストイケイア(古希στοιχεῖα, 英stoicheia)の語源や意味を辿ると「並んでるもの」「順序正しく配置されたもの」となる。
また「基本的な構成要素」「宇宙の構成元素」と続き、アリストテレスの用例では「自然界を構成する基礎」とある。
哲学的な用法では「存在の根本的な要素や原理」となり、言葉のストイケイアとしてはアルファベットを指す。
今回の「ストイケイア」シリーズのビジュアルは語の意味と渾然一体であり、我ながら標題作品としても驚異的なシンクロに至ったと自負できる
つまりそれは「並んでいるもの」であり、視覚芸術にとっての「基本的な構成要素」であり、傲慢さにおいては「芸術の根本的な要素や原理」を提示している。
しかもそれはセンスのアピールや「思った」ではなく、客観的成立に向けて多くの時間と技術が(文字通り)注ぎ込まれている。
私が善いと思った物を見ていただいているわけではない。
私が善いと思うまでやり切ってさっぱりしたわけではない。
私とあなたの「思った」の超越、好き好きの脱却、すなわち自意識を超えた中間地点(作品)で互いが邂逅すること。
これがユークリッドがストイケイアにおいて願った本質であり、私が彼に習って作った「ストイケイア」シリーズの本懐だ。
私が何者であるか、あなたが何者であるかに関わらず、同じ物に対して感動を得られるように用意周到に作り上げた主観の外側。
ユークリッドは「ストイケイアを読むより簡単な方法はないか?」と聞いたプトレマイオス一世に「幾何学に王道無し」(意訳:学問に近道はない)と答えたとされるが、私の「ストイケイア」シリーズはしげしげと見ていただくだけでよいのだからお得だ。
 
誠に勝手ながら整ってキレイな作品を用意して、あなたにとって「有意義な日曜日」を提供するつもりはない。
また、芸術は「充実した日々の一コマ」を証明するプロップスでもない。
理性と合理性を超越した思索のスクリーンであり、狂気の被造物としてあなたの合理的な日々を脅かす偏執の肯定である。
少なくともマントラ(呪文)としての『ストイケイア』をあなたの意識と無意識に刻み込み、語の音が残す輪郭の記憶を出来るだけ留めておきたいと願っている
私のことを覚えるよりもストイケイアについて覚える方がどの方面においても有意義だろう。
このシリーズを観てユークリッド原論に興味が湧いた方は、ユークリッド原論追補版/訳·解説 中村幸四郎、寺阪英孝、伊東俊太郎、池田美恵/共立出版」をお読みいただくとより一層私の言うユークリッド像がはっきりするだろう。
内容解説や歴史解説もあり、読み物としてもおすすめする。
ぜひご一読いただきたい。