あらゆる物事のつながりについて

私が健全だが極限を求める青年だとして、料理人を目指したとします。

 

そこでまず考えるのは「いかに美味しい料理を作るか?」です。
手始めに家や学校で食べる料理(→経験)から糸を手繰るでしょう。
 
次に「世の中にはいかなる料理があるのだろうか?」と視野を広げます。
おにぎりや焼き鮭、カレーや中華丼、ラーメン、餃子、カツ丼、スパゲッティなど、よく食べる物も美味しいですが他にどんな料理があるか気になるものです。
そしてどうしても拭えない懸念がこれを後押しします。
 
「僕は世界で一番美味しい料理を食べたことがあるのだろうか?」
「僕は極東の島国に居るのに、世界の料理の何を知っているのだろうか?」
「僕は料理の何たるかを知っているのか、美味しいとは何か?」
 
図書館や本屋に行って本を読むでしょう。
料理や食の歴史を辿り、食の地域差を知り、食を通じて人間を知り被捕食者の生態を知ることになります。
 
フレンチ、トルコ料理、本格中華…世界三大料理も食べるでしょう。
知識としては食べなければ極限に至りません。
他にも台湾やNYの路面で売られているベンダーのB級グルメや、インドの怪しげなカレー、冷凍食品、イヌイットが口にする生肉やマタギたちが食べるジビエなど。
あるいはお菓子、駄菓子、和菓子、洋菓子、コンビニスイーツに至るまで見逃すわけにはいきません。
極限を知るにはいざ究極に出会った折に、それが極限であると推定できるだけの広い知見が必要です。
単に私が「美味しいと思う」以上に、全ての人にとって美味しいと言えるものこそが最高の料理のはずです。
 
ある日、私は美味しいと思う料理を残した人を見かけます。
その人に尋ねると「嫌な思い出と混ざって味や匂い自体がダメになった」といいます。
料理自体のクオリティーは十分なのに美味しいと感じられないというのです。
これが事実だとすれば「美味しさは食べる人によって異なる」ことになります。
実際、振り返ってもそれを裏付ける出来事は多々あります。
そこで人の味覚や認識について調べました。
 
経験論といえばイギリス経験論です。
イギリス経験論と相対するのが大陸合理論理です。
そしてこの二つを統合したのがカントであり、カントを知るにはプラトン、アリストテレスも知る必要がありました。
哲学史を一通り巡って、美味しさは主観に過ぎないのか、あるいは客観的な美味しさがあるのかをさらに深く考えます。
その中に決定論もあり、美味しさとはビッグバン以降すでに決まっていた発現すべき感覚なのか?という問いも生まれます。
また一切がまやかしに過ぎないと謳う仏教の考えも最高の料理にとって破滅的です。
あるいはニーチェが最高の料理を食べてもニーチェに他ならないであろうという予測も最高の料理にとって重大な危機でした。
 
料理の極限、美味しさとは何か、人によって異なる美味しさの解釈、結局運動した後の水が一番美味いこと…極限の料理を巡って狂気的な探究はニュートンやアインシュタイン、ダーウィンや老子、美人が隣に居ることが美味しさに与える影響に至るまであらゆる方面に飛び火して包括的な思考を必要としました。
「最高の料理」にとって無関係なものなどなかったのです。
 
 
 
このように一つの極致はあらゆる物事の関連を明らかにし、宇宙のどこを切り取っても無関係とは言えません。
一流は一流を知る、とはよく言いますが、本質的にやっていることが重なり合うからでしょう。
つまりそれはピカソもアインシュタインもピクシーズも手塚治虫もデヴィッド・リンチも違うようで同じことをしているということです。
それぞれ個々に趣向も思想も宗教も異なりますが、ニーチェの思考と私の作品は並ぶべきであるという前提を含んでいます。
多くの芸術家はピカソの真似事が芸術家であると錯覚します。
確かにピカソは芸術家として必要な要素を含んでいるでしょう。
しかしそれを真似るということは芸術家の本分として大きくズレています。
タレント業は必要な渡世術ですが本業ではありません。
 
芸術家は作ること、見ること、見られること、見せることを再定義し、その根幹に何があるのかを嗅ぎ取り、全人類が感心するような狂気と偏執を使ってその成果を持ち帰ることを命じられた研究者です。
通常一般、合理的で妥当な計画や判断では決して辿り着けない険しい山の頂にそこにしか咲かない花や秘薬を持ち帰るべきでハンターなのです。