写真を撮って撮って撮りまくってまた撮って、 作り直して作り直して他人に見せて意見を聞いて、
マグリットを見てフォンタナを考えて、 映画を観たり音楽を聴いたり本を読んだり。
レタッチしてCGを駆使して発想を切り替えて、 煙草を何千本も吸ってコーヒーを何千杯も飲んで写真とは何か、 美しさとは何か、私のやるべきことは何かを考えた。
かつて私は路上スナップの枚数が十万枚を超えたところでスタジオ 作品に切り替えた。
二十万枚の未来に期待が持てなかったためである。
このような合理性に欠けた行動はそれ自体に意味があるわけではな い。
合理的な判断でいえば、 アカデミックな芸術教育を受けて相応しい師を訪ねて影響力を持っ た人物を訪ねるのが筋だろう。
芸術というものが状態であり、 他人がとやかく褒めそやし口座の数字が積み上がることが真価であ るとするなら間違いではない。
しかし私や一部の人間は今生だけの世界に生きていない。
宇宙の始まりから終わりまでを一つの大きなつながりとして考える ため、単に現在の評価や経済事情が作品の役割とはならない。
一万年前と現在をつなげる意識こそが、 知性や芸術家の持つプリミティブな生命としての宿命である。
作品はどの時代、 どの地域にもつながるように作らなければならないのだ。
合理的な学習時間、合理的な学習量、合理的な判断の数々。
これらの積み重なりで血が沸くような作品は生まれない。
それはスマートで誰にでも理解可能で実利にあった判断に違いない が、合理性を超えた先鋭化だけが特有の景色を見せてくれる。
それは狂気であり偏執的で執念が注がれた非合理的な作法だ。
いかに頭のネジがを外してただ一点にだけ執念を注ぎ続けられるか だけが、芸術家の秀でた部分と言えるだろう。
それぞれの結果に関しては運もあるし、 うまくいった数の何万倍も屍が積まれているのは事実だろう。
しかし合理的な手段、判断を百回、千回、 一万回繰り返しても欲しい結果が得られない時、 人は合理性を超えた新たな手段を選択する。
繰り返される合理性の外側だ。
単位百回や千回では物の数にならない。
人が褒められるような回数を超えて、 ドン引きされるような回数に至って初めて誰も見ない固有の風景を 見る資格を得ることだろう。
それはチャラついた自意識や下心が原因でも問題ではない。
金儲けのために宇宙論に至るような人物は一流に違いない。
ただし、 金儲けの実態は芸術の探求と比較してももっと初歩的な段階で実感 を得ることだろう。
そしてこれに使命や宿命を見いだせるのはごく限られた人物だけだ と予想できる。
常識を超えた手法、量、展開、思考。
これらによって得られた固有の成果。
すなわち、合理性から逸脱した結果得られた珍しいもの。
これこそが芸術の持つ価値だ。
芸術は合理的で牧歌的なお絵かき教室では生まれない。
単に物量を求めているのではなく、 常識的に考えられる手段や思考を超えた方法のたまたま得られた珍 しい結果に価値があると考える。
これに必要な条件は合理性を持たない偏りとその実行以外にはない 。
おそらくは多くの人々は合理的ではない行動自体を選択することは 難しいのだろう。
危うい道を好き好んで歩く者は少ない。
誰だって成功の確率が高い道を歩きたいものだ。
この冷静な合理性に背く理由は信仰か、 あるいは偏執的な狂気と呼ぶべきものだ。
しかし私は思う。
合理的に綺麗に描かれた風景画のどこに感動するべきなのだろう? と。
合理的に整って満ち足りたフランス料理のどこに面白みを感じるべ きなのだろう?
単に綺麗な服を着た綺麗な女のどこに、 美しさの神髄をみるべきなのだろうか?
私が感動し得るのは偏執と、 偏執的な狂気を持ってたまたまうまくいった者だけが持ち帰れる秘 宝だ。
すなわち、イカれた奴らの幸運物語と言ってもいいだろう。
ネジがはずれた奴らだけが歩く道の、 たまたま辿り着いた無二の風景。
もし常識では得難い程の価値を手中にしたいならおすすめしよう。
合理性を逸脱せよ。
合理性に塗り固められた思考や人生を投げ出して、 自分だけが信じる選択に身を投じよ。
他人は馬鹿にするなり笑うなりするだろう。
これに耐えられないならもとの合理的な生活に戻るべきだ。
しかし、他人が笑うことを何とも思わないのだとしたら、 自分の信じた偏った道をひたすら宇宙の果てまで行くべきだ。
その道だけに得られる特有のお宝が見つかるかもしれない。
多くの偏執的な人々は途上で朽ち果てた。
一部のラッキーな奴らだけが、 まだ誰も見た事のないヴィジョンを持ち帰ってくるのである。