信仰と信仰の闘い

「良い」よりも「もっと良い」を求める。

あるいは最高を想定して作る。
これは多くの場合に合理性に反して実現されない。
最高を求める場面は限られており、例えば自分の生涯の伴侶でさえも最高を求める人は限られている。
 
芸術やスポーツや将棋などは、最高最強を求める数少ない人類の営みだ。
あるいは学問では完全を求めるが、一般社会で「完全」はメルヘンな世間知らずが使う言葉だ。
完全であり最高であることを求められること自体がごく限られており、彼らの多くは利益の最大化を求める。
限りなく少ない労力で、限りなく最大限の成果を得ること。
 
芸術家は最高を求めるが、クライアントが欲しいのは最高ではなく最適である。
幾度となくこの悲しいすれ違いは生まれた。
お互いに成熟して知性を持った大人であるにも関わらず、なぜこれが解消されないのだろうか?
 
 
主観と客観は西洋哲学から生まれた言葉だ。
もっと言えばプラトン以降の言葉だ。
しかしプラトン以前に遡ると、主観と客観は二元論的な性質を持った双生児ではなく元来二つで一つの一元的なものだった。
私から見た印象は(主観の一種は)客観の礎になるし、客観は主観に訴えかけて作用する。
相互にどちらかが動けばもう一方も影響を受ける。
至極真っ当で対等な関係だった。
だから実は二つに分ける必要もなかった。
 
芸術家は合理主義者から見て必要以上の最高を求める。
最高よりももっと最高を求める姿勢は狂気や偏執と言える。
そんなことを始めてしまったら、他の兼ね合いに齟齬が出てくる。
しかしこれを考慮するよりも先に最高を求めることこそが正しいと信仰しているわけだ。
片や合理主義者は合理的であることが正しいと固く信じている。
ちょうどいい家、ちょうどいい洋服、ちょうどいい車にちょうどいい幸福。
最高ではないかも知れないが、合理的に確度の高い選択の繰り返しが生存確率と幸福度を高めると信じている。
 
一見して変人と一般人の構図に見えるが、芸術家だけが偏りを抱えていて合理主義者には偏りがないとするのは論理的におかしな話だ。
この信仰の差を個体差の問題として考えるのは誤りだ。
もし芸術家が狂気的な偏執を持って実践しているとするならば、合理主義的一般人も同程度の狂気があると予測できる。
この方がフラットで公正公平な考え方だ。
つまり芸術家の信仰と同程度の狂気を持って、合理主義者は合理的であることを正義として固く信仰している。
これには私も驚いたが、私にだけ狂気があって他の人には無いと考える方が思い上がりで選民的だと気がついた。
合理主義者は狂気的偏執を持って合理的生活を信仰しているのだ。
 
こう考えると世の中には多数のその証拠があることに気がつく。
昼時の混雑したマクドナルド、ワンフロア20戸以上ある集合住宅の同じドアの並び、無印良品、高速渋滞、カッコ良くもない車たち、便利でもない家電製品、住宅もない住宅地、楽しくもない職場、面白くもないコンテンツや映画…
もし世界のあらゆる権限を私一人が持った時、決して活躍できない人は無数にいる。
アイドルはほとんど全滅だし、文化人だって同程度全滅する。
ジュースも数が減るし、すき家は消滅し、西武鉄道は廃線、Android機は姿を消し、秋葉原は昔の電気街に戻るだろう。
狭いウサギ小屋の住宅事情は解消し、多くの人口を地方に送り込んで都市過密も解消される。
飲食店に並んで待つことは禁止されて、子供たちはほとんどあらゆるサービスを無料で受けることができる
これは私から見た善を元に設定されるからだ。
 
なぜそうではないのか?は、私以外のたくさんの人々が私とは違う判断によってそれらを支持して選択するからだ。
それは個体差や好み以上に信仰が異なるために生じる結果だ。
その大部分は合理原理主義者との差によって生じる。
彼らは盛り過ぎたソフトクリームは許さないし、喫煙も健康被害を訴えて排除する。
ユニクロの服を讃えるし、凝りすぎたデザインを好まない。
彼らは私が最高を求めるように、合理的であることに重点を置く。
それが最高であったとしても合理的でなければ弾いてしまうだろう
 
 
 
このような摩訶不思議な予測は信仰の対立が明らかだからできることだ。
私と彼らは信仰するものが違う。
私は客観的に完全に優れたもの(クオリティー)によって彼らの主観的価値観の変革を試みる。
優れた客観性があれば彼らの主観にも変化が生じるのが道理だ。
しかし現実にはそうではない。
なぜか?
彼らに生じた主観の変化以上に、彼らの狂気的な信仰心が強力だからだ。
その作品は確かに優れているかも知れないが、合理的であるかについては未知数なので評価は控える…こんな具合だ。
主客一元のはずが、闘うべき相手は私とは異なった信仰であった。
信仰を信仰で説き伏せるのは最大の悪手だ。
それは永遠に交わらない。
信仰を打ち砕くのは別な信仰ではない。
 
例えばそれが多数派工作だと有効だろう。
合理的でない人が多数派になれば彼らは言うことを聞く。
堅固な信仰も裏を返せば運や偶然によって信じられていることがほとんどだ。
死刑囚を悪と断じるのは信仰心であって正義観ではない。
たまたま自分が健康で問題が少なかったから今の考え方に落ち着いているだけだ。
もし難病を抱えていたり、他の大きな問題があるとしたらまるで意見や主張は異なるだろう。
健康だからラーメンがうまいと言っているに過ぎず、食べられない身体であれば思うことすら出来ないのだから。
 
共産主義者を狂気の反社会勢力とみなす。
それ自体の良い悪いは私にはわからないが、少なくとも共産主義者に見られるような同等の狂気的な信仰が一般のそれぞれの内にあるはずだという仮定。
彼らにはあって私たちには無いというのは単に差別か想像力が足りないのだ。
最高を求める芸術家のように、国家転覆を企てる共産主義者のように、異教徒を殺すと天国に行けるイスラム原理主義者のように、理性的な合理主義者である大半の人々も自らの合理主義的精神を正しいと断じて信仰しているのだ。
それも自覚なく、自分は極めて普通であると錯覚して。
 
信仰は重く、容易に変わることはない。
あなたや私がそうであるように、今まで信じてきたことを簡単には変えられない。
それでこそ信仰なのだから。
しかし、だからといってこの信仰と信仰の対立はそのままでいいわけはない
まずは手始めにそれぞれの無意識で無自覚な信仰に気づいてもらい、自身の信仰の矛盾やおかしさを指摘する必要がある。
ポップアートは、まさに狂気的な合理的信仰の意趣返しであり、大衆の無自覚な生き様の鏡となって大衆に突きつけたのだ。
それを大喜びで迎える合理主義者の滑稽さは、まさに風刺画のように哀れで愚かな時代の犠牲者に見えるだろう。
私は人々に愚かさを突きつけたいのではなく、彼らの主観を超えた信仰に対抗する手段として、自身の信仰を説く以外の手段を模索している。
そして極めて冷静で聡明な主客一元的なクオリティーによって、彼らの主観に変化を生じる客観性を披露したいのだ。