クリプキの可能世界論について

絵を描いて下さい。

何でも構いません。
紙でなくとも、鉛筆でなくとも。
 
もしくは絵を描かなくてもいいです。
何か他の事で代替してください。
何でも構いません。
 
最悪代替しなくていいです。
好きな事をしてください。
つまり好きな事をしなくてもいいです。
 
 
 
これはあなたを単におちょくってるわけではない。
可能世界をあなた自ら直接的に感じて頂こうという趣向だ。
可能世界とはライプニッツに端を発する用語で、現代の漫画やフィクション作品では比較的お馴染みなパラレルワールドとか並行世界とか呼ばれるものに近い。
量子学で言えばエヴェレットの多世界解釈やシュレーディンガーの猫にも関わるような概念だ。
 
今日あなたがこの会場に来る時に、いくつかある洋服の中の一つを選び、いくつかある靴の一つを選び、いくつかあるルートの一つを選んで今ここにいる。
しかし洋服がちがったかも知れないし、靴がちがったかも知れないし、ルートがちがったかも知れない。
そのどの組み合わせもあり得たはずで、その中の一つを辿って今これを読んで呆れている。
 
可能世界論は作品を作る人なら誰でも理解しやすい。
そうでない人でも言われたらそんな気がしてくるものだ。
つまり「絵を描いて下さい」と言われてa:描くb:描かないの分岐がある。
それ以降果てしない分岐のどの組み合わせもあなたは選ぶ可能性があった。
 
「当たり前の事をもったいぶって嫌味な奴だな」
 
落ち着いて欲しい。
正確な話には前提の説明が付き物だ。
ユークリッドのようにまずは定義や定理、公理のような前提を話している最中だから、もう少し我慢していただきたい。
 
aならばbであり得る。
ソール・A・クリプキのモーダル論理の記述を借りれば以下の式に収まる。
 
a ◇ b
 
実にシンプルで明快だ。
確かに今日、雨も降っていないことだし、スタンスミスを履いた可能性もあればジョン・ロブを履いた可能性もあった。
つまり
 
スタンスミス ◇ ジョン・ロブ
 
だったわけだ。
 
 
芸術家の実態の話に戻そう。
ある日、作品はピラミッドを描いたかも知れないし、うさぎちゃんを描いたかもしれない。
ピラミッドはツヤツヤしたゴールドを塗ったかも知れないし、深い藍色を選んだかも知れない。
どちらもあり得た可能世界だ。
すなわち
 
ピラミッド ◇ うさぎちゃん
ゴールド ◇ 藍色
 
の可能世界があった。
派生して、ピラミッドならばトーラスでもあり得たし、うさぎちゃんならばアヒルちゃんでもあり得た。
あるいはその日は全くやる気が起こらず、何も描かずビールを飲んで夕方には寝入っていたかも知れない。
 
 
可能世界論はどこにでも広範に及ぶため話を広げたが、よりリアリティーを増すために統合と集約を始める。
芸術家はその人の可能性が及ぶ範囲ではどんな作品も作る事ができた。
例えば水滴の形を選別してても、それぞれが傍目にほとんど違いがないような微細な差異を嗅ぎ取って任意の一つを選ぶ。
選びはするが当然悩む。
悩むとは可能世界が開かれている証拠でもある。
「この水滴」が良いか、もしくは「その水滴」が良いか、この選択が全体を左右するほど重要か、あるいはほとんど差異がなく重要ではないのか…?
「あの水滴」をデジタル加工した方が最適な場合も十分にあり得る。
 
このようにあらゆる可能世界を排除したただ一つの結果だけが現実となって作用する。
近年「絶対に今これだけの世界」に対する信仰は揺らいでいる。
ベルの不等式の破れが証明され局所実在論も綺麗に否定された。
私は可能世界論に甘えて自堕落な自分を可能性によって慰めたいのではない。
素晴らしい作品とは、あらゆる可能世界の重ね合わせの結果、あるいはそれ以外の可能世界の排除の結果に生まれる。
素晴らしい作品は素晴らしくない可能性があったし、天才と呼ばれる人々も天才ではない可能性があった。
すなわち自由意志にも似た能動的選択の結果が素晴らしい作品や天才を生むというわけだ。
 
 
「素晴らしいもの」の定義を決めて(それをイデアとして)近付けるようにはいい作品は生まれない。
参考にされた「素晴らしさ」が再現性を持たないのは、結果は単に結果に過ぎないからだ。
重要なのは必要な量の「aならばbである」の分岐を辿ってくる事だ。
このプロセスのうち生還した一握りの作品だけが芸術的なアウラを持ち、他のどれでもないそれだけの唯一性を持ち得るのだ。