斜真論(1)

親愛なる友、しゅうえいくんに捧ぐ
 
この芸術論は私の知る限りの芸術一般に関する具体性、形而上学などについて解説を試み、彼の認識と論理の中で証明を目指すものである。
すなわちこれは私の記述する言葉ではあるが、彼の持つ言葉の秩序を逸脱せず、彼の持つ五感の域を超えない。
この意義はそもそもの対話というものが相手の認識上のカンバスに描く絵であり、他人の家で作る料理であること。
中国人の家庭でエジプトの家庭料理を作ることは難しいが、食事とおいしさという点において役目を果たすことはできる。
私は私の洞察や熟慮の結果を記述すると同時に、その形式的な秩序を彼に託すものである。
これは私の得たものが単に私の個体としての特性に依存せず、少なくとも私と彼の二者間において証明可能な客観性が実在することを確認することで一層の真実らしさを高める互恵的な書簡である
 
 
 
【1-1】音楽の回帰性とパラレルワールドについて
 

音楽の根本的な性質として「回帰性」があります。

回帰性とは一度ならず何度もベースとなるモチーフ(動機)を繰り返すこと。
交響曲symphonyにおいては起承転結の中で、最初の起が結にまで各所に差し込まれる構造を指します。
(専門的な解説ではないので正統性に欠けた表現を使っています)
これはクラシックに限らずポップミュージックでも同様です。
 
例えばド→レ→ミをモチーフとした場合、それを周期的に繰り返すことです。
しかし何度も全く同じことを繰り返すわけではありません。
ドド→レ→ミ、ミ→ド→レ、ド→レ→ミミミなど派生していきます。
なぜ派生するのか?
ド→レ→ミが「あり」であるなら他の派生形も「あり」である必要があるからです。
ド→レ→ミがあり得て構造上親近性のある別な構造もあり得る関係が成り立たないとすれば、ド→レ→ミだけが特別に素晴らしいという状態に陥ります。
派生が成立しないというのは、ハンバーガーはありでもビックマックは許されないということです
おいしいハンバーガーが二重になったらきっとおいしいだろう…こう予想するのは必然です。
あるいはチーズを挟もうとか、ベーコンを加えようとか、ハンバーガーが生まれるならこれを祖とした派生が同時に生まれるはずです。
 
同じハンバーガーでもパティの厚みは何mmがいいんだとか、合挽き肉がいいんだとか、バンズにセサミを混ぜると香りが増すとか、モチーフを中心に細かな設定が付随します。
音楽は回帰性の中で恣意性(多様性)の提示を行ったり、組み合わせを考えたりします。
それらの統合されたものが曲として一つの塊を作るわけです。
 
回帰性(繰り返し)はつまり恣意性(多様性)の拡張で、ド→レ→ミのモチーフの中でどのド→レ→ミが良いのかを探究します。
つまりド→レ→ミに対する大喜利と捉えても差し支えありません。
そして最高の解は当然求めますが、そのモチーフに対する最高を求める過程自体が本質なのです。
どれか際立って良いド→レ→ミが得られることよりも、その過程そのものが思考の派生と展開であり素晴らしいと言えます
バスケットボールで一本の完璧なゴールよりも、勝利に至る過程そのものが重要であることと同じです。
 
すなわち一つのモチーフは単なる思いつきに過ぎませんが、そこから始められたあらゆる派生と展開こそが音楽の本質的なストーリーです。
そして一つのモチーフは様々な派生と重なり合っています。
まるでパラレルワールドのような多数の分岐があり得るのです。
これは創作の中に自由を感じられる一因と言えるでしょう。
音楽は構造自体がすでにパラレルワールドを行き来するような幻想に満ちています。
様々なあり得たド→レ→ミのパラレルな展開の組み合わせが曲という一つの単位なのです。