斜真論(2)

【2-1】赤と青の分割、色としての統合

 
幼少期に「信号は青になったらね」と教わり、肝心の信号機を見ると緑色だと思う人は少なくありません。
実際に色相としては緑色です。
しかし呼称は「青」で統一されて、大人になればその違和感もなくなります。
 
この原因は、日常では緑色と青色を違う色として分割しているからです
つまり緑には緑の、青には青の固有の感覚を持ち、それぞれの印象の差を持っているということです。
 
色の歴史を振り返ると、赤の識別から始まり、白と黒へと続く説が一般的です。
赤は血の色であり生命の危機を知らせ、食べ物の状態を伝えてくれるからです。
赤とそうでないものを分割することは有益だったわけです。
白と黒は昼と夜の分割に伴います。
青は割と後半です。
空や海が「青い」と識別するのは、青くない仕切られた空間や環境から行き来しないとわからなかったと思われます。
後にラピスラズリなどの鉱物の発見がなされ、宗教的な価値を帯びるようになり、はっきりと青ではないものとの分割がなされたと思われます。
 
認識の確立には時間がかかります。
それは何日もの変わらない日常があって初めて真実として獲得されるのです。
知らない外国の街を歩いてみてください。
誰がいい人で誰が悪どい奴なのか判断が難しく、どの店が良くてどれがあまり良くないのかもわかりません。
そこに一年でも住めば様々な知識が生まれ、判断がスピーディーで正確になります。
それは日常というアベレージを知っていて、日常と比較した時の差に気がつく事ができるからです。
 
作品の制作も同様の感性がはたらきます。
写真で言えばいろんな瞬間がある中で「この瞬間」と「その瞬間」を分割します。
コンマ数秒の時差の中に、緑と青のような違いを見いだすわけです。
「このアングル」と「そのアングル」も分割されます。
「このトーン」と「あのトーン」も区別され、それらの洗練された感覚や知性から意識された「まさにこのアングルのこの瞬間のこのトーン」が作り上げられることになります。
そして「この作品」と「あの作品」の明確な差として、赤と青のように明瞭な差を露わにしていきます。
 
例えばコンマ数秒、少しの角度と少しのトーンの差が、ねずみ色と少し濃いねずみ色のような微差に収まるとすれば、分割と統合の精度や設計に問題があると言えます。
くだらない事にこだわってるようにしか見えないわけです。
つまり差の無さにこそ気づく必要があります。
入れる塩一粒までこだわる事を努力とは言わず、浜で取れる塩と岩塩を分割するのが必要な洞察力です。
 
分割と統合は知性の基本です。
可能な限りニュートラルに差を感じ取り、似ていることを感じ取り、差の無さを感じ取とることだけが他のどれでもないそれだけの魅力を持った作品に直結します。
赤と青を同じ色として扱うのは、スプーンとフォークを同じものとして使うようなものです。
スープをフォークで飲み、ステーキをスプーンで食べることはお勧めしません。
この世界という元々一つでしかなかったものを差に応じて分割し、的確なアプローチの繰り返しによって正しく「このこれ」を手に入れることが叶うのです。