我々はふざけたい

芸術の本質は「ふざけること」だ。

役に立つことを無視しなければ、真にあらゆる可能性を考慮したとは言えない。
梶井基次郎の著作『檸檬』では、本屋の芸術書のコーナーで本を山積みにしててっぺんにレモンを乗せて悦に浸る。
あなたがよりふざけたいのであれば、次は蟹でも乗せるのが順序だろう。
 
小さな子供はどの子供も一様に信用がおける。
彼らはふざけることに素直だからだ。
妙な倫理観や信仰によってふざけない子供は一人もいない。
こちらがしっかりとふざけてやれば笑ってくれるしのっかってくる
例え私が気持ちの悪いオジサンであっても全く気にしない。
私がふざけられるかどうかだけが、彼らにとって興味の対象か否かの線引きとなる。
 
世の中に酒を飲む習慣があるのも同じ理由だ。
誰しもが本心ではふざけたいのだ。
しかし大人たちは自分の培った信仰のために大っぴらにふざけることが出来なくなってしまう。
だから酒の力を借りて一時的にでもふざけたいのだ。
皆で酒を酌み交わすのも、互いにふざけ合える口実として合理的だからに他ならない。
 
ファッションも同様。
なぜカッコいい服を探すのか?
服なんてものは機能だけあれば足りる。
性器を隠すならイチジクの葉で十分だ。
みんなが作業着であっても全く不思議ではない。
色んな色や形、ギミックの洋服がたくさん売られている理由はやはり“ふざけたい”からに他ならない。
コムデギャルソンを見よ。
あんなものを喜ぶのはふざけたい自分の肯定に他ならないのだ。
 
車や腕時計に信じられない巨額の財産が必要な物がたくさんある。
なんと非合理的なことか。
もはや針がどこを指しているのかさえもわからない数千万年の腕時計も珍しくない。
ポルシェはなぜ空冷にこだわるのか?
ハーレーもそうだ。
この趣味の多くはふざけることと合理的であることの両立を目指す物が多い。
それは金額に等しいだけの価値を保証するためでもあるし、金額をドブに捨てるだけの酔狂をあらわすためでもある。
壊れにくいクオークのデジタル時計であれば千円ちょっとで十分機能する。
 
ふざけたいことは人間の本質だ。
まっすぐ歩けば着く目的地にまっすぐ歩いて辿り着く合理主義者は無粋が過ぎる。
逆向きに歩き始めて地球の丸さを確かめるべきだ。
年端もいかない我が子たちも日々ふざけることに余念がない。
しかしふざけてばかりいる事は生存確立に著しく影響する。
例えば噴火前の火口を覗きたいからと言って実際に出向いていくふざけ至上主義者は結果的に淘汰されるだろう。
そんな先祖の血の多くは絶えてしまったはずだ。
 
小学生たちがふざけ過ぎて怒られる。
誰かがふざけた事をきっかけとし、ふざけ合い合戦に発展したからだ。
言わばふざけの大喜利だ。
ふざけに次いでもっとふざける。
それを見た他の誰かがもっとふざけてガヤガヤとうるさくなっていくあれだ。
ここに芸術的発展のエントロピーが現れている。
つなりふざけることの多様性の拡張だ。
 
イーロンマスクにしたって今度は火星に行くと言う。
みんなが慎ましい生活に戻ればその必要はないはずなのだが、火星に移住する計画の方がずっとふざけてて素晴らしい、と人々は魅了される。
ランボルギーニを買う金持ちも、その非合理的イカれ具合が単なる金持ちであることを否定する。
ふざけることの粋を表している。
 
惜しくも失敗はしたが沈んだタイタニック号を観に行く潜水艦ツアーもあった。
その潜水艦は合理的で、プレイステーションのコントローラーで操縦する代物だ。
全くふざけてる。
結果、彼らは海の藻屑と消えた。
ふざけ過ぎることは命に直接関わる。
だがそれだからこそふざける甲斐もあると言うものだ。
 
我々はふざけたい。
目の前の箱を壊さないようにではなくて、ビリビリのズタズタにして開けたい。
マルクスと毛沢東のそっくりさんを連れてトランプ大統領に会いに行きたい。
鼻からうどんを食いたい。
まるでパンツを履いていないかのように見えるポーズをたくさんの人に見せたい。
全く倒錯している。
倒錯しているがそれが本質だ。
全く役に立たない美しいだけの作品の見えない裏に、信じられないほど崇高な理念と思想が潜む痕跡を、女の艶かしい太もものようにチラリと見せつけたい。