私的言語からの逸脱

言葉が独善的であることを避けるために、真理に基づいて語る人々は引用を繰り返す。

単に自分の瞬間的な感情の吐露に留まらず、真実と地続きであるためには軸足を自分以外に置くことが不可欠だ
 
私的言語は立場によってもそう見なされる。
例えばニーチェが意味深で意味不明な何事かを口走っても意味を考えさせられるが、泥酔した者の断片的で意味不明な言葉に真理とのつながりを見る人は少ない。
あるいは私が小難しい言葉をたくさん積み上げても同様で、私による私にしかわからない言語使用を超えないものは本質的にコミュニケーションではない。
 
私がテーマに基づき引用元を明示することには、その作品が穴ぐらで私的言語のように独善的な美意識によって作られてはいないことを強調するためだ。
つまり私的言語の逸脱だ。
作ることに満足する人は言うことに満足する人であり、言うだけで完結する言葉は本質的に相手を必要としない。
壁にでも話していればそれでいいのだ。
 
歴史に紐付け、過去の概念や記述に基づき、分野を横断して語るのはそれが私的ではないことを明らかにするためだ。
単に私から肉体的に編み出された言葉ではなく、言語としての機能を持った客観的表現であることの重要性は甚だ大きい。
世の天才が天才と呼べるのは、彼らが彼らにしかわからない言葉で話さなかったからだ。
彼らは我々にもわかる言葉と形式に沿って記述したのは、それが個人的な趣味ではなく真実にとって必然的な形式だったからだ。