斜真論(3) 【3-3】知性が働かない状況の対応

【3-3】知性が働かない状況の対応
 
 
昨今の国際情勢を見て、果たしてウクライナと米国のどちらに正しい理念があるのか私には判断がつきません。
SNS上でも割合はさておき相反した反応が飛び交っています。
 
これは第一に正確な情報が不足しているためです。
表面的な交渉の決裂や双方から発せられる批判の真意を判断するための前提となる情報が足りません。
また、公式に飛び交う情報も双方のいずれかの意図を含むため鵜呑みにできません。
さらには根本的に私自身が正しい情報を得る手段を持っていません
 
第二に歴史的な経緯に対する知識に不足しています。
古代や中世と異なり現代の歴史の流れは情報過多で、むしろ何がおきてどうなっているのか一概に判断することができません。
このため一般的な人々はそれぞれが断片的な知識や情報を持っていますが、体系的に定まった判断を下すほの全容は誰にもわからないというのが実情です。
歴史というものが全人類に向けたものではなく、専門家が専門的な手段を用いて分析する目に見えないものとなっています。
 
第三に直接的に正確な信頼のおける情報源がない私たちは、間接的に判断することになります。
例えばウクライナ情勢に関しての情報発信者が、過去に別な正しい情報を発したことがあるとか、普段から謙虚で誠意のある活動をしているとか、そういった判断です。
当然必要な情報そのものの直接的な信憑性にはならないのですが、確認する手段を持たない以上、間接的なひぃうかによって判断するしかないのです。
 
つまり知性による分割の作用、どちらが正しくてどちらが間違っているのかの判断ができない状況にあります。
判断するだけの正確な情報に不足し、必要な前提知識に乏しく、間接的な正当性を持った判断以上の行動は実質不可能な状況にあります。
 
 
 
このように状況は単に国際情勢や政治に関わるものではありません
芸術にしても同様の力学が働いていると見ることができます。
見せられた作品に対して分割や統合できない状況です。
 
作品を直接的に知性によって判断できない状況。
並んだ作品群のどれが優れていてどれがそうでないのかの判断を直接的にできない場合です。
作品における正確な情報というのは基本的には目に見えるもので全てです。
それがいつ誰によってどのように作られたかは、作品そのものにとっては本来不要なメタ情報です。
なぜ不要と言い切れるのかについては以下のような根拠によっています。
 
ある作品を「客観的に良い作品」とする場合、その客観を構成する部分としては私も含まれる必要があります。
「客観的」というのは人類全員のことであり、限定的なグループだけのことではありません。
もし客観に外側があるとすれば、それは客観的という意味において自己矛盾と言えます。
客観はアジアであり、北米であり、中世であり、おばあちゃんであり、生まれたての子供であり、むしろ宇宙人でさえも対象である必要があります。
客観に含まれない例外的な人があるとすればそれは主観的と言い直す必要があります。
 
客観はその意味において自分の思ったことではなく、他の誰かからでも見たことを基準にしている以上、私も含まれるしどなたも含まれることが条件となります。
故に私でさえも客観の一部として必ず席が用意されているはずです
私が良いと思うか、悪いと思うかは単に主観的だと批判することもできますが、私が客観の一部である以上は一定の正当性を持つことができます。
これには前提条件があり、私が善意の客観的構成員であることが必要です。
つまり私がある作品を良いと言う時、何か政治的な事情や個人的な思惑ではそれを言わないという前提です。
作品とそのメタ情報だけを原因として良し悪しの判断をする必要があります。
これを守ってさえいれば、私の主観的な判断は同時に客観の一部に組み入れられることになります。
 
以上のような理由から私の知性的な良し悪しの分割は、私の主観的分割であると同時に客観的な分割の一部に含まれます。
芸術は作品だけが主体であり全部であるためにこのような判断が可能となります。
世界情勢は主体がニュースに流れる映像だけとは限らないため、手に入れた情報だけでは知性による善悪の分割ができないのです。
 
直接的に判断ができない場合には間接的な手段を用いる事になります。
すなわち歴史において判断したり、値段、著名人やインフルエンサーからの評価、いいね!数など…
世の中の大部分が一部の直接的な判断が可能な社会的に信用力の高いキーパーソンを信用したり、お金に換算する事で作品の良し悪しを推測しているのが実際でしょう。
私が信用のおけるニュースだけを観て世界情勢を観測している事と同じです。
実際にはアメリカにもウクライナにも行く事なくその状況を判断しているように、実際には作品の具体性ではなく付帯的なメタ情報で判断する場合は多くあると思われます。
 
 
強い芸術は直接的に強いと同時に、メタ的で間接的に強い事で評価されるでしょう。
多くの人々が原画を見る事もなく何かが名画であると判断している現実があります。
どちらが実体と言えるのかは複雑な議論を呼びますが、直接と間接の両面的な手段によって立体的に対象化されて作品が存在している事は事実です。