構造主義について1

構造主義とは、二者間の相関においてそれぞれの主体性よりも第三者視点での構造を抽出して世界を読み解く思考様式です。

ユダヤ系フランス人のレヴィ・ストロース(2009年没)が唱えて以降、現代では哲学的潮流の最先端に位置します。
わかりやすい所では昨今のポリティカル・コレクトネスの流れにも少なからず関係しているように感じます。

構造主義の特異性は前後の哲学形式との比較でよりはっきりとわかります。


構造主義以前の西洋の哲学的状況は神の存在を否定し、人間独自の感性で主体的に物事を受容したり判断したりを始めた頃です。
この頃はまだ最終的に神のような存在を意図していたり、あるいはニーチェのように明確に「神は死んだ」と宣言する者もいるような不安定な状況です。
フランス人哲学者のサルトルらの唱える実存主義が大勢を占め、西洋哲学の最終形態と呼ばれたりもするようなムーブメントもありました。
事実、サルトルの信奉者は数多く、彼の亡くなった際の葬列には五万人が駆け付けたと言われています。
人気者だったんですね。


さて、実存主義の内容は一旦置いておきます。
実存主義の支える形式について、その骨子はヘーゲルの唱える弁証法的進化観です。
弁証法的進化観は、ある物事のテーゼとそれに反するアンチテーゼを戦わせてより優れたジンテーゼを生んでいくというプロセスです。
これを繰り返す事で人類は良き方向に進み続け、最善に近づいていくという考え方です。
具体的な例では二大政党制がわかりやすいでしょう。
意見と意見を戦わせより良い意見にする、を繰り返すのです。
一見して合理的でわかりやすい方法論かと思われます。
マルクスの資本論も進歩史観と弁証法的な進歩観によって構成されています。
資本主義社会がプロセスの過程で、その後革命を経て共産主義社会に至るという有名なアレです。


そして現在後進国に位置づけられるいわゆる「未開人」の人々でさえ、同じように弁証法的進歩を施せば進歩していくと考えていました。
そして彼らは当時の西洋文明の前の状態で、これから西洋社会のように弁証法的なプロセスを経て発展していくものと考えました。
人類は時代を経るごとに進歩していく、という歴史の見方を進歩史観といいます。
去るこの時代ではヘーゲルやサルトルは弁証法的な人類の進歩と進歩史観を持って論理展開しています。
これは特に差別意識とか傲慢なつもりは当人たちにはなかった事でしょう。


こうした中、レヴィ・ストロースはブラジル奥地で調査したり、数学の幾何学にある群論を用いたりしながらサルトルを批判します。
曰く「サルトルの進歩史観や弁証法的な進化は単に西洋文化的なとらえ方に過ぎず、実態から逸脱する上いかにも傲慢な西洋中心主義的な思考から抜け出せていない」
「私が少数民族を調査した結果、サルトルのいう人類の進歩するプロセスや理論に反する結果を得た」
これにサルトルはまともな反論が出来ず、旺盛だった実存主義の潮流は終わりを迎えました。






レヴィ・ストロースは少数民族でも西洋諸国でも共通する近親婚の禁止(インセストタブー)の由来を調査しました。
その結果それぞれの構造を発見し、共通項や意味などをとらえたのです。
彼は民俗学者や人類学者と称されますから、単に机上でテクストを作っただけではありませんでした。
これまでの哲学者とはアプローチが異なったことは確かです。


数学の群論、インセストタブー、言語の研究、範囲は多岐に及びます。
言語学では名前には意味がない説を唱えます。
「犬」は犬だから犬と呼ばれ名付けられたわけではない。
犬と犬以外の物を区別するためにたまたま付いた名前に過ぎないと言います。
この辺はまだ不勉強ですが、日本的な感性で言えば名前はとても重要な意味を持ちます。

ハンターハンターのアリ編でも「メルエム」という名前がストーリーに非常に大きな意味を持って登場します。
自分の子に名付けるにせよ、字画をみたり非常に丁寧に考案します。
レヴィ・ストロースは発声の群から構造を見つけ出して、名前には意味がない事を論じているようです。






レヴィ・ストロースと構造主義の紹介はこの辺にします。
まだ理解が浅いため読みにくいと思いますが今後理解が深まる毎に説明もうまくなるでしょう。
私的構造主義は以下のような例があげられます。


・日本人がご飯とみそ汁を食べるように、インド人はカレーを食べるだろう
・日本人がTシャツを着るように、南アフリカの一部では半裸が常態化しているのだろう
・私がタバコを吸うように、彼は吸わないのだろう
・彼が安直に目立ちたがるように、私は安易に目立つのを避けるのだろう


これが構造主義にぴったり合っているかは甚だ疑問ではあるが、感覚的には近いものを感じている。
目に見える結果がまるで違ったとしても、それは同じ事をしたように認識する。
ご飯とみそ汁セットとカレーはまるで違う物だが、食べる感覚は共通していると考える。
異なった行動や現象であっても感覚が同じであれば同じはずだ。
この感覚を構造と言ってもいい。


つまり究極的には
・私が私であるように、彼は彼であるのだろう
という事だ。


色々見聞きする中で、これは相対主義に陥っていると批判する声もあった。
批判する論旨としては「人それぞれ」で結論付ける傾向に対する批判が主であろうと推測している。


日本人が鯨を食べる事について、一部西洋諸国や団体が反発したり攻撃している。
彼らは基本的に西洋中心主義の考えから抜け出せない愚か者だ。
レヴィ・ストロースから何も学んでいない。
西洋の食文化と日本の食文化について実地調査して構造を知るべき所を単に感情的に喚いているに過ぎない。
これについて日本人は西洋人の西洋中心主義の考えや傲慢さの構造を調査する必要があるだろう。
戦前の捕鯨量ではアメリカの方が多く、しかも食用ではなく鯨油を取るために無残に取って殺すようなやり方だった。
そういった過去の愚行の批判は西洋人が嫌う攻撃の一つである。




私が私であるように、世界は世界であるというとらえ方はスタート地点だ。
そのままでは確かにLet it beに過ぎない。
しかしこれは見地を広げる中で全てを同じテーブルに並べるという事だ。
全てを、だ。
死刑囚も我が子もテレビゲームもアラスカも、同じテーブルに並んでいる。
構造主義への批判にもあるらしいが、構造主義ではあらゆる物が等価になってしまうと言われている。
構造を本質ととらえ、現実にある実体を差し置いてしまっている可能性は無きにしも非ずだ。


この構造でとらえるという原資は哲学者たちの言う理性だ。
弁証法的進歩観でも神に代わって核となるのは理性だ。
理性が働く限りあらゆる物事は構造を持つことになる。
この事への疑いがポスト構造主義などに変化して展開を見せているが、これらも構造主義の考え方をベースにしているため構造主義の一派として考えられるのが一般的らしい。


感覚、相対、構造、どの言葉でも構わないが、確かに一旦この考え方に寄ってしまえば全てがそのように扱われる。
パソコン上で見えるもの全てが0と1で記録されている事に似ている。
例えばこの宇宙におけるあらゆる物事を0と1に直してパソコン上で見る事は可能だろうか?
これは直感的にはNoであるように思われる。
パソコンで見える限り断片的限定的と言わざるを得ない。

同様に構造主義で世界をとらえようともその全体が満遍なく正確にとらえられるわけでは無さそうだ。
カント的な批判に晒されたら一個の論説に千の穴を指摘してくるだろう。
構造主義自体は今世界で最も新しくて正しく世界を認識したり論じたり出来る方法であっていると思う。
この言い方は正しくはないだろうが、感覚的には一般相対性理論のようなものだ。
完全とは言わないながらも世界を説明する方法論。


一旦ここまで、次回を待たれよ
7.Aug 2024
sao