構造主義について2

サルトルは実存主義と左翼活動を追い風に多くの人の支持を集めた
サルトルとレヴィ・ストロースは高校の同級生だった。
その頃の成績ではサルトルの方が優秀だったようだ。
 
サルトルはヘーゲルの進歩史観と弁証法的進歩をベースに論理構築している
平たく言えば「今未開の国の人々も、我々先進文明に至る途上であるから時代が進めば我々のようになれる」
と、こう考えていた
こういった認識はインテリのみならず、インテリが言う事だしと一般層にもあった認識だろうと思う。
 
これに対して異を唱え批判したのがレヴィ・ストロースであった。
ちなみにレヴィ・ストロースも若い頃は社会主義団体の偉いやつにまでなってるし、一瞬政治家を目指したりしている。
 
 
 
レヴィ・ストロースは親族の基本構造という著作の中で、インセストタブー(近親婚の禁止)について論じている。
インセストタブーは先進国、後進国、少数部族に関わらず存在する習慣で、それがなぜ全世界的に存在するのか当時の人類学では説明できない四大問題の内の一つだった。
これらの問題に対してレヴィ・ストロースは構造の概念を持って解決に導いた。
 
より具体的には、社会においては婚姻クラスというものが存在する。
ある夫婦は誰かの子であるため元々属するクラスを持ち、その子供たちもまたそれに伴ってクラス分けされていく。
日本ではいとこ同士の婚姻は可能で、子供を生んで育てる事に何の規制もない。
いとことは同じ親を持つ兄弟、姉妹の子供の事を指すが、それは結婚してもいいと分けられている事がクラス分けの一種である。
 
レヴィ・ストロースはこれらを平行いとこ、交叉いとこなどより厳密に区分けして4つのクラスに分類した。
平行いとことは男兄弟のいとこで、日本で言う本家筋にあたる。
交叉いとことは異性兄妹のいとこで、これは多くは族外の扱われ方、つまり分家となる。
4つのクラスから最終的に女性を「交叉いとこ」と「姉妹」に分ける事が出来る。
つまり、結婚できる血族と出来ない血族に大別される。
 
レヴィ・ストロースはここで言語構造学の母音と子音の関係と同じである事に気づく。
扱っている事象は異分野ではあるが、関係性つまり構造が同じ異なった事象を発見する。
 
関係性が決定付けられると数学理論の一つである群論を用いてより構造的な理解が可能になる。
レヴィ・ストロースは群論、言語構造学、人類学のそれぞれの異分野を用いながら一つの共通した構造を発見したわけだ。
俺はこれを横断的検証と呼んでいる。
異なった分野で同じテーマを扱う事、これは波及させるスペースが広がるし説得力も増す方法論となる。
 
ここからは余談だが、レヴィ・ストロースの理論では婚姻制度は交換のための制度と説明される。
つまり交換するために一族に結婚できない種類の女性を用意する。
交換するために結婚する。
これにより財産や義理の兄弟、はたまた女性そのものを社会的に循環させる事で集団を維持するのだ。
レヴィ・ストロースは西洋的見解から群論などを用いて説明したが、群論や文明が今のように発展する何千年も前から各部族や民族はこれと同様の繊細な婚姻制度によって社会や集団を維持してきている
彼らを未開人だとか野蛮人だとか切り捨てるサルトルのような輩がいるが、西洋社会と変わらない婚姻制度を構築しているじゃないか、とサルトルたちを批判した。
 
これら一見して論理的でも高度にも見えないが、実は構造的に理にかなっていて高度な仕組みや方法を扱っている事を野生の思考と呼んでいる。
野生の思考とはつまり西洋社会がバカにして見えていなかった完成されたシステムや習慣の事で、よくよく調べると合理的だったり必要だったりあるいは西洋にも変形して存在しているものだったりの事だ。
 
 
 
俺が感動したのはレヴィ・ストロースのこの理論の周到さだけではない。
もし仮に構造主義やその物の見方の全部が嘘っぱちで勘違いであっても、このユダヤ系フランス人は自ら西洋文明を批判し反省出来るんだねっていうところだ。
仮に全部が真実でそれを発見したとしても一体どれだけの西洋人が「未開人は別に未開人じゃない、我々と同等のシステムを有しておりそれがわからないのは単に文化が違うからだ」と認められるだろうか?
差別意識なくフラットに物事を見定め導き出される答えに対して素直に受け取れるだろうか?
全部の研究がそうじゃなかったと覆ったとしても、レヴィ・ストロースは優しくて自省出来る奴って事だ。
逆にサルトルは実存主義が嘘っぱちだったらただの高慢な西洋人に過ぎない。
 
 
 
 
 
 
構造主義の話ばかりでも疲れると思うので、人間の本質って記憶じゃないの?って話。
 
古代ギリシャの時代から本質と実存の物の見方は存在した。
イデア論とかもそう。
例えば椅子の本質とは座れる事、台になれる事。
実存は脚が四本あるとか背もたれがあるとか木製だとかクラッキングするとかさまざまだ。
ある日四本ある椅子の足の内二本が折れた、つまり椅子は座る事も台にする事も出来なくなった。
こうなったらきっと椅子は捨てられて買い換えられるだろう。
それは椅子が本質を失ったからに他ならない。
 
ではMacbookではどうか?
Macbookの画面が割れました→交換すればまだ使える
バッテリーが壊れました→交換すればまだ使える
キーボードが壊れました→まだ使える
つまりテセウス式にあらゆる交換可能な所が失われても使用できるため、依然として本質は失われていない。
起動しなくなりました→こうなったらいよいよ本質は失われたと言っていい。
もしくは重さが100kg超えましたとか、ちょっとぶつかるだけで割れる使用になりました、とかになったらもうMacbookじゃない。
持ち運べてコントロール出来るパソコン、これがMacbookの本質だ。
 
 
では人間の本質とは?
 
片腕なくなりました→大丈夫
片目失いました→大丈夫
下半身不随になりました→大丈夫
ハゲました→大丈夫
眼鏡かけました→大丈夫
 
人間は死なない限りその人間である本質は失われないように思える
 
では
寝たきり状態になりました→会話できるなら大丈夫
植物状態になりました、ボケました→この辺から怪しい。
記憶を全部失いました→
記憶を失ったその人はその人と呼べるだろうか?
今と全く同じ状態で記憶だけが消えた場合、その人はその人ではないだろう。
つまり下半身丸ごと失っても生きていさえすればその人で間違いないが、五体満足であっても記憶が消えてしまえば最早その人では無いと言っていいと思う。
 
つまり記憶こそが人間の本質である説が俺の中にある。
そして今記憶について調べて出てくるのがベルクソンという哲学者
彼の展開するイマージュという概念がまるでパイドロスの言うクオリティーとほど近い。
近日中に色々調べる予定だ。
 
 
とりあえず二通目はこれにて。