プラトン、カントについて(改訂版)

古代ギリシャの哲学者プラトンが唱えたイデア説というものがある
これはいわゆるメタフィジック(形而上学)だ。
 
イデア論とは人間が現実に目にしたり認識したりする事物は現身(うつしみ)であり、本体は別な上位世界のイデアであるという思考様式だ。
これは例外性の説明に便利で、あらゆる事物が完璧完全でないのはイデアそのものでは無いからと言い訳が出来る。
ちなみにイデアを語源として→イデー(観念)があり→アイデア(理想、ひらめき)がある。
アイデアから制作物が生まれるとすれば、つまりイデアがあって事物があるという関係そのものと言える。
 
 
 
語源の話で言えば形而上学を意味するメタフィジックも面白い歴史を辿る。
メタフィジックとはmetaとphysicsの合成語であり、physicsとは自然学を指す。
metaは(その)先のを意味し、これはある歴史的な流れから偶発的に名付けられた経緯を持つ。
 
元々ギリシャにあったアリストテレスの書き残した書は長い歴史の中で中東圏にまで伝搬される。
ギリシャ語からアラビア語にphysics(自然学)として編纂されていた本の後に伝えられたのが形而上学の書で、故にphysicsの次の本という意味でmeta-physicsとして残されていた。
しかし時代の流れの中でギリシャではアリストテレスの書のほとんどを焼失してしまう。
重要な文献を失っては困るので、中東にある写本を元に復元が試みられ現代に至るわけだ。
こうしてアリストテレスの意図しない形でその概念はメタフィジックと名付けられる。
 
 
 
カントが純粋理性批判で扱ったのもメタフィジックである。
平たく言えば経験的に学習できない分野についての認識の限界について論じている。
これは歴史的背景を見ないとわかりにくい。
 
まずカントの時代、18世紀にはニーチェらはまだいない。
つまり神について否定し、人間自らの力で考えるタイプの哲学には移行していない。
そしてカントの両親はルター派のプロテスタントであった。
カント自身もその環境で生まれ育つ、そして死ぬまでプロイセンの地から出ないで生涯を終えている。
 
ちなみに神学も当然メタフィジックの一分野だ。
経験的なものではないからだ。
学者精神と優しさを持つカントは、リリジョンとサイエンスの双方を否定することなく、鋭い思考のメスでそれらを綺麗に切り分けた。
認識の限界を提示する事で学問的領域とそれ以外を厳密に分け隔てたのだ。
この後の時代に神本位の哲学から脱して人間本位の哲学に移行する歴史を振り返れば、カントの時代と役割は過渡期の成せるものだったかもしれない。
 
これは想像に過ぎないが、カントが許せなかったのは学問的な形式で神学者がとんでも理論を得意気に語っているのがダメだと感じたのだろう。
だから両者を生かしたまま綺麗に切り分ける作業をしたのだ。
 
 
 
 
実際的にメタフィジックは必要だろうか?
 
アインシュタインが光速不変の原理を唱えたのは、マクスウェルの真空での光速度は同じという実験結果と、ミケルソン・モーリーのエーテル実験が下地となって発案に至っている。
私は光速不変の原理もメタフィジカルな性質があるように思えた。
どうやってそんな発想になったのか?
これについてはまず光の伝搬においてその媒介があるはずだというエーテル理論があり、エーテルの証明の過程で光速が変わらない結果から演繹されたものだった。
 
メタフィジカルな思索とは、単なるイデアを夢見たスピリチュアルな逃避だろうか?
 
形而下の事を淡々と仕上げていくべきではないか?
例えば丸山さんの虹の作品のように、水滴が丸くブレないように撮影するための照明の改造をしたり、水の粘性を調整したりする事は形而下の作業で具体的だ。
アーティストはとにかく作品を作り、作品で語ればいい。
これは至って正論だ。
 
 
しかし私の作りたいものは経験的に積み上げられた成果ではない。
知識や経験、すなわち形而下のデータ蓄積による創作とは至ってノーマルな考えにも思える。
このプロセスを文章に直すとこうなる。
 
「絵を学び、練習して、そしてうまくなり、それがやがて名画を生む」
 
私はこれに懐疑的だ。
まずはアイデアが無ければ生まれ得ないと思う。
つまりアイデア=イデアという事だ。
 
形而下の進歩史観的な見方だけに頼ると、人類は練習し続ければ100m走の記録を伸ばし続けられる事になる。
確かに世界記録は更新が続けられているが、どこまでも速く走れるようになるわけではない。
いずれ光速に近付くかといえば、絶対にそうはならないのは自明だ。
100mをいかに速く走るかという事に、人類がいつまで熱中していられるかは時間の問題だろう。
 
 
 
メタフィジックを用いらざるを得ない理由はもう一つある。
音楽でもこれが顕著だからだ。
若い優れたアーティストたちがいて、彼らは音楽的知識も人生経験も年寄りに比べて圧倒的に足りないにも関わらず優れた作品を生む。
また、やればやるほど良くなるわけではない。
いいアルバムと呼ばれるものはデビュー初期に多かったりもする。
つまり音楽も経験的に解釈仕切れない分野の一つだ。
 
 
 
私もカントにならって、俗世の有象無象を否定せずにそれらと私の成すべき仕事を鋭く選り分けて共存させるべきかもしれない。
しかし一方でこれもカントのように、厳密に違うのだという事を認識の上で改めて自明なものにするべきかもしれない。
 
神を殺さず学問も否定しなかったカントは、たぶん優しい奴だと思う。
彼は純粋理性批判の発表後にそれが難し過ぎるとかややこしいとかそういう批判を知っていて、純粋理性批判を要約して書き直したプロレゴメナという書を出している。
彼は他人の話を聞かないタイプでもないと思われる。
 
 
 
一旦ここまで