前回はクオリティーはユークリッド幾何学でいう所の点に由来し、 点の集合をうまくまとめ上げる事で形を成し作品としての完成を迎 える事にふれた。
ではクオリティーの源泉となる点の存在とはどんなものだろうか。
写真史としてはなじみ深く、 哲学史的には構造主義やポスト構造主義に位置するロラン・ バルトという学者がいる。
彼の「明るい部屋」という著作は私もかつて通読し、 写真を学ぶ学生にも一般的に推薦されるような有名図書だ。
明るい部屋の中で彼は写真論を展開している。
実は内容としては大したものではない。
しかし哲学者特有の造語が登場し、 それが今回の説明にも適するので紹介する。
彼は自分の亡き母親の写った通称「温室の写真」 について思索を広げ、 記憶と発見の中でさまざまな感覚や概念に邂逅していく。
そこで用いられる造語概念が二種、 プンクトゥムとストゥディウムだ。
プンクトゥムとは=刺すものを意味する造語で、 写真が特定の個人に強く訴えかける情念や感覚を指している。
本の中で彼は「温室の写真」にはプンクトゥムがあり、 その他ストゥディウムな写真と比較して理論展開している。
全ての写真はストゥディウムでありその中にプンクトゥムな写真も ある、というような言語構造だ。
私は私が考えやすく第三者にも誤解なく伝えやすいという理由で幾 何的な「点」とそこから発展する形を用いて説明したが、 図らずも昔から点のような概念があったという事だ。
プンクトゥム=刺すものは、点の概念と遠くない。
穿たれた点はまさに人の感性を無遠慮に刺すものと解釈することも 出来る。
正直な所、著作の明るい部屋は単に母恋しい思いが溢れていて、 芸術論や創造論の本としてはイマイチだ。
自分の亡き母親の写った写真がその他の写真と異なって心を揺さぶ る事は当然と言えば当然だ。
カント以降の学術的態度としてこの比較様式は科学的な公平性に疑 問がある。
ロラン・バルトの構造主義的な役割は把握してないが、 そこまで期待を寄せるものではない。
点は時に部分的だ。
そして時に倒錯的にその重要性が裏返ったりする。
以下、点の名称をギリシャ語によってシミオとする。
シミオは光の加減だったり、見える角度だったり、 特殊な並べ方だったり、断片的なアイデアとして発見、 収集される。
あるキャラクターを創造したとして、まず目の形象を「これ」 にしよう、と思いついたとする。
これをシミオとして目がこうだったら口はこう、 というようなプロセスで完成を目指す。
この際多くの場合は目より目立ったり込み入ったデザインは設定し ない。
目にクオリティーがありそれを活かすのが正攻法だからだ。
しかし目をシミオとした創造のプロセスの途上で、 もっとクオリティーを感じる口のデザインを思いついたとする。
これは偶発的な流れで最初から意図したものではない。
ここからは個々の判断によるが、シミオを目から口に変更する。
今度は口をシミオとして目を合わせて修正する。
これが制作プロセスの一部であるが、 この流れはヘーゲルの弁証法的進歩にもよく似ている。
弁証法のプロセスは、テーゼがありアンチテーゼがあり、 アウフヘーベンされる事でジンテーゼを生み出す、というものだ。
このアウフヘーベンというドイツ語は造語ではなく、 ヘーゲルが既存の言葉を自分の言っている概念のために新たに使い 始めたものであるが、元々特殊な意味を持つ。
アウフヘーベンは日本語に翻訳されると止揚(しよう)または揚棄 (ようき)となる。
アウフヘーベンの意味としては何かを持ち上げる、保存する、 破棄する、がある。
保存する事と破棄する事は反対の意味で、 反対の意味が同じ言葉で表される事はいかにも矛盾している。
しかしヘーゲルはこれを気に入って自らの概念を使用する事に用い た。
つまり、 アウフヘーベンは議論において単に賛成と反対に分かれてその結果 を指すものではない。
二つの意見の一部を保存し、一部を破棄し、 更に高いレベルに持ち上げる事を意味している。
一語の中に矛盾を持つアウフヘーベンは、 矛盾を許容し新しい概念(ジンテーゼ) に至ろうという意図で扱われる事になった。
さっきのキャラクターデザインの流れがそのまま弁証法的進歩とは 言えないが、アウフヘーベンされた結果、 口をシミオとしたキャラクターデザイン(ジンテーゼ) に移行したと言えなくもない。
これはプロセスのどの時点でも起こりうる事で、 目と口が定まった後に他の部位をデザインする過程で、 もっと優先すべきシミオが生み出される可能性も当然ある。
これは実行した結果自らの目で見てその感覚の結果変更や継続を決 めているからだ。
頭の中にイメージや構造があるだけでは、 ほとんど無い事に等しいと言っていい。
実際に存在するものとして目の前にあらわれた、 もっと直接的にクオリティーを感じる事が出来るはずだ。
いい目といい口といいボティーを単純に組み合わせたらいいキャラ クターが生まれるわけではない。
優れた全体は各部分部分の関わりの上に成り立っているからだ。
そしてそれが単に頭の中のイメージに留まらず、 目で見る事でより直接的にクオリティーの多寡を感じ取るフィード バックが不可欠である。
制作の過程の中で、 最初の構想が全く消えて別なシミオに注力する方向転換はよくある 。
というのもクオリティーを高めたいのであれば、 クオリティーに従った制作方法が不可欠だからだ。
続く