完全性信仰と揺らぎ(助走)

哲学史において中世は暗黒時代のような扱いを受ける場合が多い
つまりソクラテス、プラトン、アリストテレスの紀元前のギリシア以降の説明では
現代のデカルトまで急に飛ぶ事も少なくない。
 
この間にキリスト教社会では何をしていたというのか?
神の存在証明を含むアリストテレス哲学と神学の融合を試みていたのだ。
もっと具体的には普遍論争というものがあり、これが中世の間しばしば議論の的になったりした。
 
普遍論争とは、実在論と唯名論の論争だ。
 
実在論とはプラトン主義哲学をベースにしている。
そしてひいては新プラトン主義となり神学に密接に融合していく事になる。
この時代に限らずプラトン主義と新プラトン主義哲学とキリスト教神学との相性がよく、ほとんど蜜月と言っていい関係を築いて現代にもつながっている。
プラトンの哲学が神学や信仰にどのように都合が良かったのか?
プラトン哲学の根幹とも言えるイデア論が非常に相性がよかったのだ。
 
形而上、とは目には見えない事をさす。
権利、法律、親愛など、目には見えないが存在しているものを扱う。
お金の価値も形而上の概念だし、人権にせよ形而上の概念だ。
一方、形而下とは実際に存在する物、触れる事が出来る物をさす。
つまり実験して数値が取れるものだ。
アリストテレスは自然学にも長けて様々な実験や観察を行っている
火は酸素が無ければ燃焼しない、などの事実と観測は形而下の出来事だ。
 
では神学はどうか?
神は目に見えず、触れる事は出来ない。
死後にお目通りする事はあるかもしれないが、それさえも恐れ多い。
つまり神は形而下で扱う事は出来ない。
 
プラトンのイデア論は形而上学だ。
イデアとは現在我々の居る世界よりも上位の世界。
あらゆるものにイデアが存在する。
例えば美のイデアについて、ある絵が素晴らしいものとしよう。
それは美のイデアを模倣したものだ。
美のイデアに似ているため多くの人に感銘を与える一方で、美のイデアそのものではないため全員が感銘を受けるわけではない
椅子には椅子のイデア、三角形には三角形のイデアがある。
 
キリスト教において重要なのは階層社会だ。
神が存在する階層があって、天使がいる階層があって、人間がいる階層があって、というような構造を持ち、この事が非常に重要視されている。
新プラトン主義とは簡単に言えばイデアのさらに上位に一者(いっしゃ)と呼ぶ概念を据えて、それ自体を神とは呼ばないものの神のような振る舞いをする何かがプラトン主義に加えられたものだ。
この世界とここよりも上位や下位の世界観は、まさに聖書的な世界でいう天国や地獄や現世や死後と重ねて考えやすい。
神や天国の説明をするためには、形而下の具体的な論拠を出す事が出来ない。
しかしキリスト教において神は世界の根幹そのものだ。
時代を経て論理学が発展、普及して、同時に科学や天文学が発展して認識が更新されていく中でも、はっきりと明確な受け答えを用意する必要があった。
これはキリスト教が人間社会と密接に関係し合い、時代や人々の認識に応じて的確に応答する事で影響力を維持してきた事実も浮かび上がってくる。
 
 
神学には形而上的論理学が不可欠であった事、そこでプラトンの扱うイデアが都合よく利用しやすかったため新プラトン主義になっていった事、その後長い時代をかけてアリストテレス哲学との融合が試みられた事。
アリストテレス哲学との融合とはすなわち論理学、科学と神学の融合だ。
この時代の一時期には中東でもアリストテレス主義とも言うべきコーランとアリストテレス哲学との融合が急速に発達した。
それはあまりにも性急なアリストテレス主義だったためコーランとの衝突を招き、ある時期から完全に発展を終えた。
 
神様を科学するとどうなるか、現代人なら想像がつくだろう。
後に信仰と哲学、科学は別であるという現代的な思想に変化していく。
これも現状を汲み取ったキリスト教的変化だ。
 
 
普遍論争はこの過程でおきた必要な暗黒時代だった。
なにせ神の存在証明を行っていたのだから、三日や三年、三十年で居るとも居ないとも言い切る事は難しい。
 
普遍論争の実在論とはプラトンのイデア論的な論理に基づく。
ある花が咲いている。
その花は、その花の実在という雛形があってそのコピーとして生まれる、とする立場だ。
つまりハンコのように花は繰り返しスタンプされ、ハンコ自体のような物を実在と呼んでそれがあるとする立場だ。
人間も同様、椅子も同様、つまり設計者としての神を暗に意図してあり、そこを大元としてあらゆる物が生まれ出る構造だ。
 
片や唯名論の取る立場はこうだ。
ある花が咲いている。
人間はこのヒラヒラした植物に「花」と名付けた。
ある軟体動物を二種類発見した。
タコとイカと名付けた。
足が八本ある軟体動物をタコと名付けただけで、足が八本あるからタコであったわけではない。
つまり我々が人間、とか花、とか椅子、とか呼ぶのは単なる名前に過ぎない。
そういう物を識別するために名前が付いた。
花が花であったから花と呼ばれたわけではない。
椅子は椅子であるから椅子と呼ばれたのではなく、テーブルではないからたまたま識別されて名前が付いたのだ。
 
少しわかりにくいかもしれないが、現代人の認識は唯名論である。
実在論はまさにキリスト教的召命倫理の、事物がそれぞれ神によって与えられた宿命を持って生まれてくるという考え方に沿っている。
花を花とするかどうかは観測者次第だ、というのが現代の科学的立場の前提的認識だと思う。
これを社会規範に照らせば職業選択の自由やその他の選択的自由が前提にあるという現代倫理に相当する。
 
キリスト教にとって実在論は暗に神を想定できる形式で都合が良かった。
唯名論の立場をとった場合、それぞれの(個物の)独自性が元ともなるため、統一的な世界の設計者がいるという聖書の世界観に反した。
言語学的にもAではないものをBとし、AでもBでもないものをCとするように、それぞれの個物の名称はそれぞれを区別、分類するために発達した。
 
 
 
 
ここで少し脱線
喜納昌吉という歌手の有名な歌に「花」という曲がある。
聴けばわかると思う。
「花は花として咲かせてあげたい」
「泣きなさい、笑いなさい」
「いつの日か花を咲かそうよ」
という歌詞で、終始花を使った比喩表現で美しく歌い上げられる。
この時の「花は花として」という言い分に、ほとんどの人は反発を覚えないだろうと思う。
しかし哲学的には花を花とするのは喜納昌吉である。
花自身が花でありたいとは思っていないと推測される。
このあるべき所、あるべき役割という考え方は現代風な合理論で言えば適材適所に相当する。
そしてこれはプラトンで言えばイデアに沿って、神学で言えば召命に応じて、となる。
適材適所、という時、この「適」の考え方でその分布が大きく変わるのは言うまでもない。
そしてこれも言うまでもないが、現代で「適」とは資本主義的な利益のための行動、利益を生む組織論に沿った配置に他ならない。
 
この花を花として見守り愛でる視座はすでに主観的であって、とても慈愛に満ちた優しげな眼差しを歌っているようにしてあるが、花に主観を強制しているようでもある。
花はまだ美しいものとして扱われているから褒め言葉のつもりなのだろう。
誰かに何かの役割を強制するような時、その場の形而上にはイデアが浮かんでいる。
もっと平たく言えばそれぞれ「思惑」を持っている。
花は言葉を話せないから喜納昌吉は花の本当の思惑は知らない。
咲く事がいい事として、それが花にとってもいい事だと考えた。
これは実はとてもキリスト教的な歌詞なんじゃないかと思ってしまった、という話。
 
 
 
 
神は天地創造から特定の目的を持ってそれぞれの生命に意味と役割を与えて生み出したとされている。
これは19世紀のダーウィンの進化論とも一部リンクする。
進化論は生物の自然選択によって生物の進化や多様性が育まれたとされたが、これは神学的には神の主権を揺るがす考え方だった。
各生物の生存選択による進化となっては神の立場がない。
神の召命倫理も無効化される。
なんなら予定説も覆る。
しかし、現代ではこれも論理学によって迂回してカソリックは受容しているようだ。
 
 
 
普遍論争の終わりには信仰と哲学、科学は綺麗に分離した。
例えば信仰に反するような研究であっても(ガリレオなどが有名だが)迫害や圧力をやめるように変わっていった。
これにより学問は自由を得て現代に続く道筋を作っていった。
 
信仰と科学の融合を夢見た人々が長い時間をかけて最終的には信仰と科学を分離する事に成功した。
これはある人の一説だが普遍論争が現代にもたらしたものを紹介する。
 
人権という概念は現代では非常に重要だ。
人権は誰にでも等しく、かつ個々に応じて(性別や状態を考慮されて)適用される
人権は手にとって取れないので形而上のものだ。
つまりは概念だ。
そして生まれたての赤ちゃんから脳死の爺さんに至るまで等しくある、という考えは実在論的な考え方だ。
つまりハンコのように誰にでも等しい「人権」という雛形を持つ。
しかし一方でLGBTQや障害者、片親やハーフクオーターなど、各自の特性に応じて対応される態度は唯名論的だ。
唯名論は個物を基準に持つため、各自に応じる態度は唯名論的態度を踏襲していると言える。
現代で重要な概念である人権の背景には普遍論争をはじめとした中世の千年が関わっているかもしれない、という説だ。
これは一般的に普遍論争は不毛でしかないと言われる事に対する逆説である。
 
 
 
完全性の信仰とその揺らぎについて書きたかったが、普遍論争の話になってしまった。
最近はキリスト教神学の理解が進んでいる。
これは西洋社会を見るときに不可欠な前提なんだなと思う。
ではまた。