クオリティーとクオリア

私が長い間、およそ半生に近い間ずっと頭の中で続けられてきた問答。

それはクオリティーの形而上学だ。
 
とあるピカソの絵が優れていると定義しよう。
学習とか科学とか信奉というものはその絵を観測する。
カンバスの大きさから色相の分布、構成、パースペクティブの扱い、ナラティブなストーリー、時代背景、使用された絵の具の成分まで、手に取って目に見える物は当然ながら目には見えないバックストーリーまでもが舐めるように掘り尽くされる。
 
この態度は実に真摯だ。
クオリティーを持った絵を分析して本質に迫ろうというのだ。
文理両方の学力の高い人々でチームを組んで分析したらあっという間だ。
ついでに経済学チームも入れて現代社会にどのように還元したりマネタイズしたりすべきか議論でもしたらいい。
 
ここまでは科学だ。
科学というのは経験的なアプローチが主体だ。
つまりクオリティーを持ったピカソに絵を観測して分析し、経験的に標準模型を作る事が出来る。
標準模型とは英語ではStandard Model、科学においては量子力学や一般相対性理論を扱った統一理論を元にした万物の仕組みを合算して表したものだ。
観測と分析、すなわち経験的にクオリティーとは何かを明らかにする事が出来る
そして科学的にクオリティーとは何か明らかになったとしよう。
もしそれが本当ならばピカソの絵からクオリティーを構成する要件を抽出して同等のクオリティーを持った別な作品を再現出来るはずだ。
なぜなら科学とは観測と再現性が前提にあるからだ。
一度観測出来ても二度と観測出来ない事象は例外として扱うしかない。
 
しかしいくら優秀な人材を集めてピカソの絵を分析させて再現させたとしても、きっとその絵を超えるクオリティーは作り出せないだろう。
なぜなら科学的態度で経験的に取得したクオリティーでは、観測されたクオリティーの劣化したコピーにしかなり得ないからだ
クオリティーとは常に「新しい」事と不可分であり、クオリティーは再現性を拒むからだ。
 
 
 
クオリティーを知る上で科学的アプローチには限界がある。
観測と再現性を元にした分析ではクオリティーの本質に迫れない。
つまりクオリティーの本質は科学的ではない。
科学的ではない以上、形而上学や哲学に間借りする他なかったのだ。
進んで神秘性を纏って人々をたぶらかすような目論見はない。
 
もっとわかりやすい例をあげよう。
クオリアという日本語で感覚質という概念がある。
クオリティーとクオリアの語源は同じラテン語のqualis (クアリス)だ。
クオリアとはその人のその人的感覚、例えば犬の気持ちを推し量るまでは出来ても実際に自分が犬でいる時の犬の気持ちまでは知れない。
犬の犬的感覚をクオリアと呼ぶ。
赤い布を見て同じ赤が見えているのだろうか?
同じ布の表面を触って同じ触覚を得ているだろうか?
まさに今見ている「この赤」を他の人も同様に見ているかまではわからないのだ。
このような自己の自己的感覚が感覚質(クオリア)だ。
 
クオリアについて有名な思考実験を利用する。
メアリーの部屋、と呼ばれる思考実験だ。
これは実際には色を例に扱われているがクオリティーに置き換えて説明する。
メアリーは生まれた時から同じ部屋に住み続けている。
外の世界に出た事はない。
メアリーはクオリティーの専門家だ。
クオリティーに関するあらゆる学習を終えた。
あらゆる芸術作品、商業事例、芸術論、哲学、社会学、とにかくクオリティーに関わるあらゆる資料を天才的な頭脳で吸収した。
彼女はクオリティーが何であるか具体的な事例を用いて説明できるものとする。
しかしアプリオリなクオリティー、つまり非経験的で前知性的クオリティーのクオリアは持っていないものとする。
 
クオリティーの表も裏も経験的に知り尽くしたメアリー。
ではその能力を生かして既存の物とは別なオリジナルのクオリティーを持った作品を作ってもらおう。
さて、クオリティーを学習し尽くした彼女には新たなクオリティーを持った作品は作れるだろうか?
 
この実験は本来、色の無い世界で色を完全に学んだメアリーは実際に色を見た時に新たな知見や感覚を得るか?というものだ。
知識はあっても実際に色を見た時にクオリアがあるだろうと推測されるからだ。
これをクオリティーに置き換えた時、すなわちクオリティーのクオリアの問題として考えた時、クオリティーが生まれるプロセスが明確になってくる。
 
メアリーは経験的なクオリティーを元に千の試作を作った。
そして経験的なクオリティー理論で三つを選んだとする。
果たしてこの選ばれた三つの作品にクオリティーは宿るだろうか?
クオリティーの学習を元に作った作品たちだから片鱗はあるかもしれない。
しかしメアリーが持っている手段は既存の有限個の作品の各要素の複合体だ。
クオリティーの片鱗はあっても「新しさ」には欠けるだろう。
 
この学習的クオリティーの精製について、アリストテレスはミメーシスという概念で説明している。
ミメーシスとは模倣の事で、いい作品を作るにはミメーシスが重要と説いている。
メアリーがやれる事はまさにアリストテレスの芸術論で扱われるミメーシスに近い。
しかし当時の芸術(主に詩作)の扱いは低く、芸術よりも崇高で重要な物がたくさんあった。
アリストテレスは自らの自然学や倫理学にはミメーシスを適用していないだろうと思う。
ミメーシスには知識と経験が不可欠なため、経験的なクオリティーの再現としかなり得ないだろう。
 
 
 
思考実験ではあるが、実際に千の作品を作ったとしたらどうなるか?
作戦や思想はあっても予期しない結果として生まれるものもたくさんあっただろうと思う。
あからさまな失敗作やあと一歩及ばないもの、予想に反して違う印象を与える物、あるいは絵の具のバケツをぶちまけてカンバスや床を汚してしまったかも知れない。
つまり現実の創作には必ず予期しない事、偶然性が入る事になる。
全部が予定通りに進む事はあり得ない。
この創作活動に必ず含まれる偶然の中に、経験的クオリティーに反する新しい何かが生まれる可能性が秘められている。
そして偶然と必然の中で、前知性的クオリティーのクオリアを持たないメアリーは未知のクオリティーと邂逅しても目が合う事はない。
つまり知っているクオリティーの要素が見つからなければボツにされてしまう。
 
まだ誰も見た事がない絵についてそれが善い物か悪い物かの判断は経験的には出来ない。
誰にも評価されていないし、まだ知識にもなっていない。
メアリーはそれの善悪について判断出来ないばかりか、経験的要素が無い事を理由に選からもらすだろう。
一方でクオリティーのクオリアを持つ物が同様に千の試作を作るとどう違うだろうか?
 
メアリーと同様に偶然的要素偶然的産物(あるいは必然とも)が生まれる。
その中に未知のクオリティーがあった場合、クオリティーのクオリアによる判断で作品として生み出される事となる。
それを選んだ理由は経験的ではないため論理的な説明は難しいかも知れない。
自身に宿るクオリティーのクオリアのみがはっきりとした証拠なのだ。
こうして生み出される新たなクオリティーを持った作品。
クオリティーとは「新しい」と同義である。
なぜなら再現した瞬間に経験的なクオリティーにしかならないからだ。
そして古代から現代までに生まれたクオリティーたち。
これらが真にクオリティーを持つものであるなら、いつ生まれたかに関わらず常に「新しい」という普遍性があるのだ。
「古いクオリティー」と言うものは存在しないのだ。
 
我々が才能と呼ぶもの、天才と呼んで称賛するものの正体はクオリティーのクオリアを持った者たちの創作活動だ。
彼らが市井の人々と同様に創作した時、そこに含まれる偶然と必然によってもたらされた結果をクオリティーのクオリアによって選び出して人々の目に触れ耳に触れる。
これにより未知のクオリティーを世間が知る事となる。
これは経験的なクオリティーではない前知性的なクオリティーだ。
故に新しく、この新しさは時代や時期に関わらず不変に「新しい」のだ。
この「不変的な新しさ」をクオリティーと同義的に扱っても間違いではない。
 
メアリーとやっている事は同じ(千や万の試作)であってもクオリティーのクオリアによって独自に判断が出来ること、またそこに偶然性が絡むこと。
この偶然性とは創作に関わるプロセスの全体が計算通りの結果だけを求めない事だ。
計算して狙い通りの結果を得る事自体が経験的判断によるものだからだ。
何らかを善いとして予定通りの善いに辿り着くのは、すでに経験的に成果を予測した時の判断だ。
必要なのは偶然であること、すなわちそれらは新しいこと。
さらには再現性がないことから(再現された瞬間に経験的だ)それは常に新しいこと。
どの時期どの時代でも新しいこと。
クオリティーとは不変的な新しさであるということ。
 
 
一旦小まとめ。
・クオリティーとは常に「新しい」ことと同義
・クオリティーは再現性を拒む(再現出来ないわけではないが厳密な再現は不可能)
・クオリティーは時空を超えて不変的に新しいため、不滅が予測される
 
我々は前提的に事物に対してクオリティーを感じる事が出来る。
しかしこの感性は経験的(科学的)な知識によって感じるわけではない。
すごい事を知っているからすごい事を感じるわけではない。
火の温度を測ったから熱いと思って手を引っ込めるわけではない事と同様に、脊髄反射に近い反応を示す。
 
クオリティーは観測事実の中には無い。
例えば〝この赤色〟がある作品にとって重要な要素であっても、それだけを取り出してクオリティーを再現できるものではない。
〝この赤色〟を別な作品に流用しても、その作品が同様なクオリティーを持つわけではない。
〝この赤色〟について、光は電磁波で、電磁波は観測出来るわけだから色の周波数を厳密に観測出来る。
つまり観測した周波数に関していえば再現性の保たれた科学で間違いないが、科学的に再現された〝この赤色〟は同じ〝この赤色〟には見えない可能性が高い。
色は作品を構成する一要素ではあるが、他の要素と相互干渉してあらわれるものだからだ。
〝この赤色〟を再現するにはその作品をそのまま再現するしかない。
しかし再現された二枚目のその作品は単なる複製であって、誰もこれに価値を置かない。
クオリティーは総体にあるが部分にはない。
 
クオリティーを学習してクオリティーを取得しようとする人は多くいる。
先の実験のメアリーのような優秀な人は多くいる。
しかし彼らの多くは還元論的な理解で創作するため、ほとんどが意味を成さないまま活動を終える。
還元論とは「全体は部分の総和」という考えに基づく志向性だ。
クオリティーを解剖してつなぎ合わせてもクオリティーにはならない。
赤ちゃんは子宮から脳漿、小指、左脚、右胸…のようには出てこない。
はじめから一つの形相を持って生まれてくるのだ。
クオリティーも同様に誕生から一つの形相を持って生まれる。
形相を分析して部分から再現を試みる事はナンセンスだ。
 
長くなりすぎるので一旦区切ろう。
次に続く。