人の考えられる形は大きく二種類に大別できる。
一つは三角形や立方体など、 平面幾何や射影幾何などを中心としたプリミティブだ。
もう一つは草木や岩石、山の稜線、 人間や動物たちの形を模倣するミメーシス。
プリミティブは3DCGソフトなどで扱われるモデリングの基礎と なる形に由来して名付けた。
立方体や球体、錐体やトーラスなどがこれに分類される。
ミメーシスは古くはアリストテレスの演劇論で語られる用語のミメ ーシスを拝借している。
アリストテレス曰く、演劇は現実の模倣(ミメーシス) を通して昇華する事が重要であると説いている。
平たく言えばプリミティブはいわゆる図形的な形、 ミメーシスは自然界に存在する形と捉えてもらえればよい。
写真の本質を考えれば写真はミメーシス形式に分類されるだろう。
この他トポロジーといって位相幾何学というものもある。
これも随所に関わってくるが後に説明する。
人間の想像できる形は基本的にプリミティブかミメーシスの二元論 に支配されている。
街にそびえたつビルディングは実にプリミティブだ。
四角い輪郭、連続的な四角い窓。
紙幣や硬貨も実にプリミティブな形で、 長方形や円形で作られている。
ケーキも円形から切り取って売られ、豆腐も消しゴムも四角い。
テトラポッドにせよ錐体の連続性から作られているし、 愛を誓う指輪も円形をしている。
レコードも四角と円形、 テレビや洗濯機などの家電製品もほとんどプリミティブの変形体だ 。
マッサージチェアはどうだろうか?
人の体の形を模倣したミメーシスな形質を備えている。
衣服も人間の身体を基準として作られ、 自転車のサドルの形も人体造形と直接的に関係を持っている。
絵を描くにせよ宗教画は前提的にミメーシスであり、 プリミティブな要素を探すなら十字架や鳥居はシンボリックなプリ ミティブである。
ラッセンのイルカの絵もイルカのミメーシスであり、 ゴッホのひまわりもひまわりのミメーシスである。
葛飾北斎は浮世を模倣して(ミメーシス)描くのであり、 描かれる橋に使われる木材やその並び方は実にプリミティブである 。
とにかく世の中に存在する形の中で人工的な物に限っていえば、 プリミティブとミメーシスの二元論的な説明で網羅できる。
自然物に由来するほとんどの形や造形はミメーシスに分類されるが 、 見方によっては惑星が球体を保ったり海がきれいに水平線を引いた りすることもある。
これらは自然がプリミティブな形を持つのではなく、 人間が無意識に幾何的な認識をするためだ。
カルマン渦という流体力学で観測される空気の流れが持つ形なんか は非常に幾何的であるが、 人間がカルマン渦の認知なしに同様な形を生み出すことはない。
カルマン渦を幾何的に解釈する事は可能だが、 意識と無意識の両面において幾何としてカルマン渦を生むことはあ り得ないだろう。
ミメーシスには必ず元ネタがある。
プリミティブとミメーシスのどちらが善いでも悪いでもない。
完全なプリミティブも完全なミメーシスもつまらないものしか生み 出せない。
完全な球体は人間の思考の中にしか存在し得ないプリミティブな形 だ。
完全な球体は完全な平面に置かれた時、 その設置面積はゼロになるというのが数学的な理屈だ。
プリミティブ志向、プリミティブな形こそが美しいとしても、 それは概念としての完全性や美しさであって視覚的で直接的な感覚 ではない。
完全な球体の完全性は人間の目では判別できないだろう。
それが完全な球体なのか、 ほとんど完全に近い球体なのかは肉眼で直接的な判定はできない。
よってより客観的で高精度な判定が必須となる。
球体の完全性を証明するためには完全な計器が必要となる。
なぜなら肉眼では判別できず、 狂った計器でも判別できないからだ。
すなわち計器の完全性を明らかにし、 球体の完全性を明らかにする事でしか我々は球体の完全性を確証で きない。
完全な計器というものがあり得るのか、 もしあるにしてもそれが一つしかない事も不自然だしたくさんある ことも信用できない。
やがて計器の完全性を信じるしかない状態に陥る。
信仰心が重要となり果てる。
計器を信じ、 球体の完全性を信じることでしか完全な球体は存在できない。
しかし信仰心を持ってしまうと球体の完全性は単なるオマケに成り 下がってしまうだろう。
つまり完全っぽい球体と、 完全性を示す計器がそこにあれば完全であると確証するわけだから 、むしろ球体が完全である必要がなくなってしまうのだ。
言わんや、偽証であっても反証する術がないのだ。
人間が直接的直観的に判定できない限り、 完全なプリミティブは存在できない。
一方でハイパーリアリズム絵画など、 完全なミメーシスを達成したとしても感動は生まれないだろう。
完全に瓜二つなものの複製が可能であったとしても、 それは何も面白いことではないからだ。
精巧であれば精巧であるほど、ミメーシスは価値を減じる。
完全なプリミティブも完全なミメーシスもそれだけではあまりにも 無意味だ。
完全なプリミティブでも完全なミメーシスでもないものこそ、 特有の魅力とクオリティーを持った作品となる。
完全性に対してズレや歪みがあってこそ作品のアウラが生まれるの だ。