価値を定めるものはなんでしょうか?
本来どんな物事に価値が有って無いのかは人それぞれの価値観によ ります。
哲学者カントの言葉を拝借して換言すれば
「価値(対象)が認識を定めるのではなく、認識が価値(対象) を定める」
このように考えることができます。
極論すれば各々が一人で決めていい、ということになります。一方で認識は価値を定めますが、 価値を形骸化する場合もあります。
認識は必ずしも正しいわけではなく、 他者の影響を受けたりハックされたりします。
作品自体に価値があることよりも、 作品に価値があると思っているかで価値が定まるとしたら当然懸念 すべきです。
しっかりと創作に打ち込むよりも、 認識のハックを優先した方が近道の可能性があります。
価値は一人で決めていいにも関わらず、 存分に間違うこともあり得る。
こんなバカげた結論は決して承服できない、 と反論した人々がいます。
その一人がかのプラトンです。
古代ギリシャでは認識をハックする事を専業とするソフィストと呼 ばれる弁論家たちがいました。
価値や真実は認識によって定まるとしたら、 認識をハックする方が得策と考えるのも当然です。
現代でも似たような人々や手法に溢れかえっています。
相対主義的な論法で詭弁を弄する彼らに対して、 プラトンはもっと絶対的な価値(善)があるはずだと考えました。
個々の認識によって定まる価値とは異なる、 客観的な価値をイデア論として展開していったのです。
価値と認識の関係は逆転する事はないのでしょうか?
価値を高めるために認識をハックするような姑息な手段で点数稼ぎ をするのではなく、 価値が認識を変えるような強烈な影響を及ぼす事ができるのではな いか?
つまり本来の価値とは既存の世界の意味を教えるものではなく、 新しい世界のあり方を提示するものであるはずなのです。
私自身が芸術作品に求めるのは新しい認識の獲得です。
世界を僅かであっても今までと違って見せてくれる作品たちは、 まるで永久不変の決まり切った日常の綻びを教えてくれました。
変わり得る世界とは、潜在的な認識の自由を予感させ、 既存の世界の儚さを憂うものでもあります。
変わり得る認識は世界を拡張し、多面的な洞察を促します。
翻った認識によっていつもと同じ物を違う目で見られるようになっ た時、パラレルな世界を獲得した言えるでしょう。
同じなのに違う、 この重ね合わせの認識こそが人間生命の多義的な可能性の示唆とな ります。