念と芸術の近似について

日本における念の概念は仏教由来で、サンスクリット語の「smriti(スムリティ)」を語源とし「記憶する」「思い出す」を意味する。

仏教では「瞬間的に生じる意識」を念として捉え、修行においてはその持続と集中力が重要とされる。
 
この「瞬間的に生じる意識」の持続化、永続化、定着は、そのまま芸術的創作を意味するように思われる。
芸術的な創作とは意識を使い、意識を凌駕し、執着を伴って忘我し、果ては狂気に至ってその輝きを一層高める。
瞬間に対する狂気とその永続化はどの分野であってもそれ自体が芸術的な活動と見ないわけにはいかない。
 
日本語における「念」を含んだ言葉は多種多様で、実際に日常で使うだけに限って考えても以下のように無数にある。
 
執念、怨念、妄念、記念、諦念、概念、観念、疑念、懸念、失念、残念、無念、信念、邪念、情念、専念、丹念、通念、入念、余念、理念…
 
瞬間の永続化への願いは、ファウストが言ったら死んでしまう禁句ワードだった。
 
「留まれ、お前は余りにも美しい」
 
死んでまでも留めたい一瞬の方にこそ、命よりも重い価値があったわけだ。
 
ある瞬間が人生や宇宙のどの瞬間よりも重要で、これを留めて永遠でありたいと願うのは古代から数多存在したことに疑いはない。
そして芸術の狂気は、自ら留めるべき瞬間を生み出そうという錬金術であることからも窺い知れる。
逆説的な「永続化したくなるような瞬間を自ら生み出す」作法の研究。
あるいはもっと単純に「一瞬の永続化」が悲願であり、一瞬と永遠の綱引きの内に生涯を費やそうとも不思議はない。
それを念呼び、仏教に由来しながら色即是空の理を覆すものこそが極まった念と呼べるだろう。
 
楽しかった瞬間の感覚、幸福を感じる瞬間の意識を永遠にまで引き伸ばしたいと願うのは、僧や芸術家たちに限らず全ての人々の願いだろう。