美術史家と美術界の罪について

イタリアの画家ルーチョ・フォンタナについて彼の史実と思想を研究しようにも信用に足るであろう本はAmazonでは一冊しか見当たらない。

しかも著者は日本人で、訳本ですらない。
同様にベルギーの画家ルネ・マグリットの研究本を探しても見当たらず、作品集はいくつかあるし、解説本も無くはないが圧倒的に物量と狂気が足りない物しか見当たらず、しかもそれぞれ中々値段も高い。
 
例えば彼らの作品のどれかに真に感銘を受けたとして、そこに崇拝や熱狂があるのならば時代背景や前後の作品、その人の人生を調べるのが当然だろうと思う。
これから作品を作っていく芸術家の卵にとって文脈を読み解く資料となるべき物だが、美術界は圧倒的にこれが不足している。
まるで芸術に文字など不要だと言わんばかりに完全に不足している上、あったとしても不完全で値段も高い。
美術界は芸術に対して畏敬の念は無いのだろうか?
こう考えてしまうほど、コンテクストの説明や研究が行き届いていない。
 
おそらく哲学や数学、物理学の専門書はもっと充実している。
独学で研究しようと思えば少しはストーリーを構築出来るはずだ。
もしかしたら芸術の客観的研究者は、実質的には芸術家自身かも知れない。
作品を観て、それを真似て、何がいいのかを考えてあらゆる角度から思索を試みる。
学芸員たちもどうしてもっと研究本を書かないのだろう?
休みの日に聞くのにちょうどいい雑学や与太話では困るのだ。
より正確でより多角的でより文献学的な研究が必要であり、今の美術界を見渡してもオシャレぶっているだけで自分たちのサボっている仕事が何なのかまるで自覚がないように思う。
 
音楽の世界にしても、優れたアーティストは優れた研究者だ。
彼らは聴いた音楽の中から何がいいのか実体を抉り出し、それを試し、加工したり実践してみたりする。
彼らは音楽を作る一方でそれ以上に優秀な聴き手と言えるだろう。
 
美術界の文献学的、史学的観点の圧倒的不足。
作品が出来上がるまでの思索と思想の研究の不足。
ややともすればそれは個々に想像で補うことがいい事だとすら思っている節が見受けられる。
この圧倒的な甘え。
完全な言葉の不足。
解説はテレビやラジオのスケールで付け加えるぐらいでいいわけがない。
引用や年数がいい加減でいいわけがない。
言葉を嫌っている故に美術界に身を置いているとすら見える程に、美術界は言葉が足りていない。
重要なのは一つの奇跡的な名作の、それが出来るにあたっての狂気と偏執の軌跡を史実的科学的に追うことだ。
研究者がどう思うかなど聞いていない。
何が原因でそれらが生まれたのかを明らかにするべきである。
しかし概ねこのような研究の気概を持っているのは私のような在野の芸術家たちであり、しかも我々は圧倒的に少ない本や資料の中から想像で補うように作品に転化しているのだ。
 
一人の芸術家の内面を追う、そのような本は売れないのだろう。
あるいはそのような興味を持つ人も少ないのだろう。
しかし哲学者に対する研究姿勢を見ると非常に羨ましい。
美術界はほとんどアートっぽい空気だけを提供する存在か?
彼らが何を考え何に影響され何をするつもりだったのか、読み解くための資料が不足している。