斜真論(5)

【3-5】才能の形而上学

ある作品を点とした時、別な作品との関係は線と言えます。

その数が膨大に蓄積されると知識となり、線は輪郭を描き実態として認識されます。

芸術に限らず歴史も同様に、数千年前も今日も連続的な時系列で認識することが人間の根本的な認識の仕方です。

同様に物体の認識は自分と地続きの空間的な連続性によってなされることは、18世紀にカントがすでに指摘したことです。

認識は時空の連続的な関係によってなされます。

一見して難解ですがつまり昨日と今日は繋がっていて、日本とブラジルは繋がっているという前提です。

おにぎりを握るにはお米を炊く必要があります。

お米を炊く前におにぎりは握られないことを人は知っています。

人間の根本的な認識には因果律があるということです。

生まれてから家の外に出たことがなく、専門教育を受けていない私が急に自発的に良いと思った絵を描いたとしましょう。

歴史の線形、連続性から見れば突発的で離散的な出来事です。

芸術の連続的な流れの中で、私の非線形の作品は良い場合も悪い場合もあり得ます。

そのどちらであっても完全に偶然です。

引きこもりの私は芸術の連続的な流れの中で戦略的に作ったわけではないからです。

たまたま良かった場合は次も良い確率は比較的に高いと予想できますが、それでも尚最初の作品と同様にランダムです。

100作作る間に平凡な芸術家の一員となっている確率は100%に限りなく近づきます。

芸術には無数の人が参加し、より多数の無数の人々が鑑賞します。

その中でたった一人の主観的で非線形の作家が持続的に良い作品を作り続ける期待値は限りなくゼロです。

宝くじを買うよりも不毛な期待でしょう。

なぜなら社会的に上位の作家は全体の中から点を見いだし、線をつなぎ、輪郭を描いて人類総体的な芸術の連続性の中から自分の役割を洞察するからです。

自分の良いと思っただけの作品を作り続ける自由はありますが、それは闇雲に宇宙旅行に出掛けて人の住める惑星を探すようなものです。

才能が個人の特性に依存するとしたらどんな尊敬も感動も得られません。

それは単に背が高いとか髪が黒いことと同じで、引きこもりの芸術家の描いた絵がたまたま良かったことと変わらないからです。

人間は連続性の中で認識するため因果律を必要とします。

9.11がその日その時にたまたまが重なって起きたと考える人はいません。

9/11より前に何があって、その日に何がおきたのかを考えるのが普通です。

つまり因果の帰結が9/11に顕在化したと考えます。

仮に素晴らしい作品が目で見てまさに素晴らしいとしても、それは初めて食べた料理が即物的に偶然美味しかったとしても、なぜ美味しいのか?の因果律を考えます。

偶然美味しかった料理にも理由があるはずです。

同様に偶然素晴らしい作品にも理由があり、それが芸術の連続性の中で自覚的であるとすれば作者は真に芸術家であると見ることができます。

たまたま偶然素晴らしい作品であっても、その作家の連続性の中に真価を見ることができます。

そしてその素晴らしさの因果が偶然に過ぎないとしたら、スピリチュアルな尊敬をするのか宝くじの馬鹿馬鹿しさに憤るのかいずれかでしょう。

才能は偶然であっては感動できません。

それは人間が素晴らしいものの素晴らしさの因果を認識するからです。

偶然で離散的で非線形の即物的な素晴らしさは持続性や再現性がないため破綻しますし、一方で連続性を持った芸術の系譜に組み込まれて解剖されます。

偶然の素晴らしさは解剖を経て必然の素晴らしさに加えられるでしょう。

点を見いだし、線をつないで輪郭を、明らかにする。

その中で自分の役割を果たす内の偶然の誰かだけが、才能として日の目を見ることになります。