拘束と戒縛

 

季節はすっかり秋の様相で、日によって半袖Tシャツ一枚では薄ら寒いほどだ。

 

 

 

「季節の中じゃ秋が一番好きなんだよ」

そんな人も多いのではないだろうか。

 

 

実際空調のいらないこの季節の心地よさは格別で、年の瀬の慌ただしさもまだ遠巻きに眺める程度でいいし、食べ物はおいしくなるし、洋服も自由度が増して好きな格好で歩けるし、夜の虫の音は心地いいし、いかにも過ごしやすい季節でウキウキするのも頷ける。

 

 

 

そんな時候の最中に私はあるアイデアの実現化に向けて悶々と企み続けている。

それはつまり「何を縛ろうか」というものである。

 

 

 

「縛る」という行為や意味合いはなかなか奥深い。

 

物を結わえることもそうだし、門限を守らせることもそうだし、路上の白線の上しか歩かないルールもそうだろう。

また、SMなどの性的な趣味趣向にも広がりを持つし、自分自身を自分の意志に従わせることもある意味で縛りにちがいない。

 

とにかく私もある日降って湧いたアイデアのために、これから何かを縛ろうと思っているのだ。

 

 

 

 

しかし具体的に考え進めていくと、世の中に縛るべきものは多くないことに気付く。

現状は私にとって縛るに相応しく、縛るべきものは何かをぼんやり脳内で描いては打ち消しの繰り返しである。

 

 

 

 

私は予てから戒縛の精神的な立ち位置は、単に自由を制限されるという受動的な縛りだけでなく自由と表裏であると考えている。

それは主に自戒を指してそう思うのだが、自分を縛る、自分を戒める、というのはそれだけの自由がなければ実現しないからだ。

 

例えばダイエットも縛りの一種であるが、食事制限は単に食事の自由の拘束ではない。

好きなように制限できる、というのは一方で自由の行使であるし、自分が自分に強いる分には外的な圧力に脅かされてのこととは種類がちがう。

食事に関わる自由の使い方の一種としての制限でありその行使である。

 

 

 

 

 

そうなると縛る、ということの意味は一層複雑に見える。

戒縛=自由となってしまっては「自由」ということの広さに縛ることの輪郭がぼやけてきてしまう。

 

そこで逆側から辿って考えてみる、自由を脅かすとはどういうことだろうか。

 

 

 

例えば私はほぼ毎週インドカレー、特にナンが大好きで欠かさず食べている。

平日は食事制限を続けて節制を心掛けているので食べることは皆無だが、週末だけは好きなだけナンを食べる。

 

これを「縛られた」として、つまり「ナンを食べてはいけない」「お前にはナンを食わせない」ということになったとする。

ひとまずこれは非常に悲しく、苦しいのは明白である。

 

私はナンを食べることを制限され、私の自由の一部を拘束される。

 

 

 

 

きっと私はレジスタンスを試みる。

制限され縛られたとして、さてではどう食べようかと考えるだろう。

 

例えば闇カレー屋に出入りしたり、自宅で作る方法を調べたり(タンドールという石窯が必須である)、果てはナン禁止の首謀者と対決まですることになるかもしれない。

 

とにかく単に残念がって泣いてナンを諦めることはしないだろう。

 

 

 

 

 

この想像からいうと、外的な圧力によって縛る力というのは案外弱いと思われる。

 

なぜなら、他の何よりもナンが好きな私は自戒によって平日はそれを決して口にしないのに、

法律や武力によってそれを禁じられた場合にはどうにかしてそれを打破しようと行動するであろうから。

 

私は私の意志によってナンを食さず、私の意志によってナンを食している。

これはいかなる外的な縛りよりも堅固な自戒によってそのルールが定められているのだ。

 

 

 

 

 

これがそのままヴィジュアル化するわけでもないが、内側からされる拘束と戒縛がもっとも強いとの予感を強めた。

 

考えてみれば結婚指輪なんかもそういった強い自戒を促すアイテムなのかもしれない。

結婚指輪は夫婦を縛るか?については泥沼必至の話題なので華麗にスルーしておこう。

 

今のところ作品構想の中間地点には人間を縛る想定はあるが、それは既定路線なのでともう少し秋の夜長に悩んでみようと思う。

遠くない日取りで制作してHPにもアップしたいと考えている。

 

 

 

そろそろ腹を出して寝ると風邪を引く季節、衣替えはお早めに。

 

 

12.Sep 2018

さお