秋は一層深まり、朝晩は少しでも油断すると風邪をひくような季節になった。
先日なんかもくしゃみが止まらない日があって、あからさまに季節の変わり目を思い知った。
東京の街行く人々の衣替えは素早い。
夏日の翌る日、急な肌寒い日にもしっかりと秋の装いで迎え撃つ構えだ。
どうも用意周到で可愛気がないほどはっきりした切り替えである。
うっかり薄着で出てしまって肌寒さをボヤくような輩の方が気安くて親しみが持てる。
なんでも正しくて、なんでも丁度いいことが即ち正しくて丁度いいことではない。
これはいわゆる「正論」についても良く言われていることだろうが、正しいからといって正しいわけではない場面は現実世界に多々ある。
同様に、間違っているからといって間違いにならず、良くないからといって悪いわけでもなく、過ちを犯したからといって極悪なわけでもない。
どうにもならないことはたくさんあるようにも思うが、その実案外少ないのではないかとも思う。
これは私が煮え切らないこととは別に物事を二分した時に、どちらかに分けられたそれがどちらかと言えばそこにあるだけで、ややともすれば反対に分類しても差し支えないことはキリがないほどある。
例えば人一人、作品一品とっても善人悪人、傑作駄作で括り切れないことは誰にでも憶えがあるはずだ。
随分説教くさい書き出しになってしまったが、二元論に対してありがちな批判を浴びせたいわけではない。
私は自称相対主義者だからだいたいの物事の始まりの数は「2」からスタートする。
故に二元論的なリングは望むところだが、当然リアリティは「2」で括り切れない。
良いか悪いか、濃いか薄いか、近いか遠いか、端的に言い表すことはあるけれどもどこまでもヴァーチャルな形容だ。
告白すると私は言葉で真実を解き明かす器量を持たない。
しかし言葉には真実を解き明かす能力はあるのかもしれない。
それは結局使う者によるところだろうし、読み手が負うところも少なくはないだろう。
アメリカの作家ウィリアム・S・バロウズが編み出したカットアップのように、私にとって言葉は主に遊ぶ方面に適している。
世の文筆家にとってカットアップは脳内のみで既成されたりもするだろうが、私がイメージするカットアップはもっと原始的というかもっとチープなものだ。
言葉を文字に打ち替え、文字は印刷物へと生まれ変わり、紙は刃物で切り刻まれて、悦に入った作家が狂気の笑みを浮かべて細かな紙片をバラまいている。
そんなありがちな作家像と共に、カットアップによって生まれた無意味な単語の羅列に勝手な解釈を上書きして遊ぶのだ。
無意味もここに極まっているように感じるが、その無意味をつくすことにほのかな意味を感じたりするわけだ。
実に倒錯的で自分勝手な独善の世界である。
しかし私はそれを素晴らしいと思うし、一方で世の中にとって何の役にも立たないとも思うし、だがその役に立たないことが素晴らしいと思うし、無意味である事が世の中にとってもいい意味をもたらしていると考える。
文章として支離滅裂であるが、私の中にはいささかも矛盾はない。
しかしこれ以上説明する能力を持たない、悪しからず。
ちょうど最近、中国の歴史教科書が文革を貶める記述から褒める記述に変えたというニュースを見た。
まさに故事の通り塞翁が馬である。
その昔に文革から大分経ってその評価を聞かれた中国のスポークスマン(だったか国家主席だったか失念)が「まだ何とも言えない」と言ったことがそのまま現実となっている。
今更褒められ崇められる毛沢東の気分はどうだろうか?
正義と悪も時代を巡って誰かの都合で何度も交代することだろう。
ある瞬間には無意味に見える退屈な日常が、それを失ってから掛け替えのない日々であったと気付く。
使い古されたテーマではあるが、現実がそれを丁寧になぞっているのだから忘れるわけにもいかないのだ。
目の前にある時は邪魔臭いのに、後ろから眺めると急に懐かしくなったり。
物事は一方的でないし、一意的でもない。
正しいタイミングでの衣替えを軽やかに済ませる都民のそつの無さが私にとっては鼻についたり。
別な人にとっては季節に敏感で用意周到で計画的な正しい人に見えたり。
私にとってほとんどのことは「まだ何とも言えない」。
28.Sep 2018
さお