「ちょうどいい」VS「ちょうどいい」

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秋の整った部屋はこの世の至上の宝というべきものだ。

 

塵もない磨かれた床。

深みのあるミルク色の壁。

冴えた色彩と質の高いファブリックで誂えた風になびくカーテン。

味わい深い木材で作られた椅子とテーブル。

それに砂糖3杯のホットミルクでもあれば、この世に生まれてきた意味さえも悟ってしまうだろう。

 

空調はいらない。

なぜなら気候がこの上無く「ちょうどいい」からだ。

私はこの状況に不相応なズボラだが、整って清潔な物をちゃんと愛している。

 

 

 

 

「ちょうどいい」には二種類あって、一つはピッタリ、ジャストフィット、それ以外あり得ないことををさす「ちょうどいい」で、

もう一つは宛てがうの相応しい、頃合い、間に合わせというニュアンスの「ちょうどいい」である。

厳密に言えば後者の「ちょうどいい」はちょうどいいわけではない。

 

しかし世の中にはこの頃合いの事物がかなり多くあるように思う。

 

服にしても、時計、車にしても、はたまた男女関係、進学、就職、あるいは商売にしてもそうだ。

さながら成長期の小供に大きめの服を着せているかのような間に合わせが、世の中の成立に大きく寄与して半ば当たり前になっている。

当然、今の暮らしを続けるためにはこれらを許容しないわけにはいかないようだが、最近どうにも不快感にむせ返えりそうになる。

 

 

 

 

本来の「ちょうどいい」というのは、ある座標系のただの一点をさすようなものだ。

紛い物の「ちょうどいい」とはむしろ対極にあって、幅なんてものはない。

雰囲気とか、空気感とか、そういう曖昧なものではない。

それはすべての事象が一点につながるような感動がある。

必然に祝福されているような、とにかく全方位から見てピッタリくるようなもののことだ。

 

一方で紛い物の「ちょうどいい」はその模倣だ。

本来の「ちょうどいい」が必然に埋め尽くされているとしたら、紛い物の「ちょうどいい」は必要に埋め尽くされている。

そうするべきだからそうする、のようなトートロジカルな思考停止を意図的に引き起こして作られる人工物だ。

それらは必要に応じて作られるため、必要には対応するだろう。

しかし前後のつながりだとか、自然な流れだとか、そういう情緒にはまず対応し切れない。

なぜなら無理矢理にそれらしさを模倣したものだからだ。

本来の手順などというものは、それらにとっては単なるマニアックな感傷に過ぎないだろう。

 

 

 

 

私は嘘が嫌いではない。

 

嘘はいろんな場面で必要だし、世の中を面白くする大切なエレメントであると考える。

だから紛い物の「ちょうどいい」を嘘をついているから、という理由で糾弾するわけではない。

また同様に本来の「ちょうどいい」を本当だから、と持ち上げたいわけではない。

真実だから正しい、という考え方は私にはない。

 

問題なのは紛い物の「ちょうどいい」は大概において嘘としても低レベルだし、嘘を用いて繕おうとしている何事かも全然意義があると思えないことだ。

本当のことをやろうとするのも、嘘を交えてやろうとするのも実は労力としてはあまり変わらないように思う。

同程度の労力とコストが掛かるとしたら誰でも本当のこと、真実をもって実行しようと考えるはずなのだが世の中はそうは単純ではないらしい。

端から本来の「ちょうどいい」なんてものは目指してすらいないこともかなりあるように思う。

 

私は本当にしても嘘にしてもクオリティの高い方を支持したい。

 

 

 

 

私の愛する秋の「ちょうどいい」整った部屋のあの瞬間が、紛い物の「ちょうどいい」に変えられて「秋っぽい気温の快適っぽい部屋」に変わってしまっては非常に悲しい。

 

単に薄ら寒い、色の気に食わない安っぽいカーテンが風に揺れる、ヌルくて微糖のホットミルクが雑に置いてあるだけの淋しい部屋で、

コピー商品と思しきテーブルと椅子はなにかの拍子にすぐに壊れそうだし、ニスも嫌にテカテカしている。

そこから生きる意味を見出すのは涅槃の境地に達した僧でも至難の技だろう。

 

 

 

現実に生きる上で何でも整えて何でも完璧にすることは不可能だ。

それをやった人がいるなら賞賛されるべきだが、出来ていないからといって糾弾されるべきではない。

しかしだからといって「ちょうどいい」ところに落ち着いてしまっては退屈でしかない。

 

退屈の放置はアートの死に直結する。

アートは退屈を食べて膨らみ成長するものだ、餌を見す見す逃すことはあり得ない。

御誂え向きの、手頃な、手の届く、コスパのいい、リスクの少ない「ちょうどいい」アート作品なんてものがあるとしたら、それは芝居の中の小道具のようなものである。

シーンを演出する小道具として「アート作品」を演じるだけの「ちょうどいい」作品。

ある意味ではそれも一つの役割であるとも言える。

ただし私はそういう物は欲しいと思わないし、ゆえに作ろうと思わない。

 

 

 

願わくば小道具だらけの雑な芝居には巻き込まれたくはないものだ。

どうしても演じるならばアカデミー賞でも狙うべきだ。

嘘っぱちだとしてもやるならトコトン参加する意欲はあるのだが、どこを見渡しても責任者の影すらないのだ。

 

 

29.Oct 2018

さお