本の虫、と呼ばれるような種類の人は日々の読書習慣を楽しみかつ生活に生かしていることだろう。
私の読書習慣は20代で途切れてしまっている。
今も残る名残りとしては、昔読んだ本をまるで初めてかのように読み返すことに限られている。
その中の一冊に「禅とオートバイ修理技術」という私小説とも哲学書ともつかない名著がある。
これはタイトルのインパクトと相まって有名なのでご存知の方も少なくないだろう。
これと似たような題材の本といえば「カッコーの巣の上で」がある。
ご存知の通りロボトミー手術と人間の尊厳を扱った作品であるが、禅とオートバイの著者ロバート氏も脳に電気を流す施術を受けて人格が入れ替わった元患者の一人である。
「入れ替わった」と言ったが、新たに人格を手にした、と言おうか元の人格を失った、と言おうかどれが正確であるか悩ましい程にナイーブな問題を扱っている。
ストーリー自体はバイクツーリング中の考察から始まるため重々しさは潜められているが、中盤以降かなりヘビーな哲学的な議題と著者本人の施術前後についての葛藤が展開していく。
さて、今回はその本の著者であり主人公であるロバート氏の電気手術前の元の人格「パイドロス」氏についての私なりの思い至りが最近になってはっきりしたため古い話を思い起こそうとした次第だ。
パイドロス、とは本の中では人物人名であるが、私の中で一つの概念としてスタイルとポジションを獲得している。
パイドロス氏はある日から「クオリティとは何か」ということに囚われていく。
これも非常に面白い議題であるが、私が思い至ったのはその答えではない。
パイドロスは非常に理知的であり頭のいい人物である。
思考を的確に論理的に展開していく。
紐解かれた本質を丁寧に取り出して、その中に潜む宇宙について更にどんどん掘り起こしていく。
哲学にありがちな終わりなき思考展開を続けていくわけだが、私が気付いたのはパイドロスの「合理的」な態度についてだ。
「合理的であること」や「必然性を強いること」について、私自身の取るべき態度についての気付きがあったのだ。
かつての私のドラえもん的妄想の中に「食う必要も、眠る必要も、ヤる必要もない体になりたい」というものがあった。
つまり三大欲求から解放された人間こそ理想だと考えていた。
今にして思えば青臭くてむせ返るほどだ。
これはすなわち自身が合理的でありたい、合理的判断を繰り返して必然を導くような人物でありたい、というヒロイズムが根底にある。
若い精神に合理性は強く正しく眩い正義に映るのだろう。
この強迫的な合理性への憧憬、あまつさえ合理性との自家撞着の隠蔽や誤魔化しは大雑把に言えば若気の至りの一種である。
パイドロスも合理的精神の持ち主であったしその実践家であった。
それが極まって発狂するに至ったことは何ら不思議ではない。
合理性は中毒症状を引き起こす。
今の私のスタンスとしては、合理的判断とはその他判断に対置され両天秤にかけられる錘の一種、という扱いである。
パイドロス的な合理性至上主義とは違う立場を取っている。
合理的で最短の道がすなわち最速最高にならないことは長く生きていれば気がつく事実である。
若い時分に「頭でっかち」「経験不足」と揶揄されることの原因はこの合理性の亡霊に取り憑かれているためだ。
強迫的な合理性は柔軟性に乏しく、変化に弱く、無地無印無意味などの特徴の無い荒野に為す術を持たない。
「必然性」を必要とし、またそれがあるはずだと思い込んでいる。
必然性はおろか必要さえないことが世の中に溢れていることを、パイドロスや若い精神はまだ知らない。
合理性を担保に世の中を見るなら、どうにもこうにも途方に暮れるしかなくなっていくだろう
なぜ若さは合理性に賛同し、何の疑いもなく受け入れるのかについては特に不思議なことはない。
合理性は自分にとって想像しやすい虚像を映すことが多いからだ。
例えばきっかり30cm角のサイコロを木の板を使って作るような単純作業でさえも、きっと想像とは違う過程が生じて修正を促されるだろう。
重なり具合の処置や板の厚みの計算、直角の確保など幾何的立方体とは一味違った現実の木のサイコロの実際がどんどん顕になって想像したよりも手こずるはずだ。
あるいは色をどうしようか悩んでみたり、板の木目が気に食わなくて木材の種類を変えてみたり、湿気で歪んで真っ直ぐにならなかったり、ネジの差し込みに握力を使い果たしたり想像するだけで様々ある。
想像上では30cm角の板6枚と釘やネジ、接着剤やテープさえあれば苦もなく出来上がるはずなのに。
現実はもっと面倒で、あるいはそんな物買ってしまえばいいだけでもっと簡単だったりする。
実践される前の合理性はソースに乏しく、なぜかやる前から自分が正しいという勘違いをしていることが多い。
電流によって破壊された脳細胞や脳機能、それと共に失われたパイドロス。
クソがつく程に真面目に「クオリティ」の実体と正体を追い続けた彼はモノノフの精神を持った勇者である。
合理性の亡霊に取り憑かれ、中毒症状に苛まれた彼を馬鹿にしたり軽んじたりするつもりはあるはずがない。
しかし彼がほんのわずかな偏りやいい加減さを許容できたとしたなら、また違った未来もあったかもしれないとつい思い描いてしまう。
合理性のヒロイズムや信仰心、それこそが私がとらえた「パイドロス」の正体である。
合理的である自分に対してヒロイックに酔いしれることも悪いわけじゃない。
しかしどうだろう。
世の中雑味こそが本体ではないかと思ってしまう程に無意味な偶然ばかりである。
それは実は必然なのだ、と優しく説いてくれる方もおられだろう。
万物に無駄や偶然は一つ足りともありえない、と断言する狂信的な物理学者もおられるだろうか。
私が言いたいのは合理的であることは数ある態度のその一つである、という事実確認だ。
また一見そう見える想像上の産物であるという前置きである
そうしなければならない事というのはたぶん、きっと、おそらくは、一つもないはずなのだ。
パイドロスの考察はこの100倍は面白く、クオリティの形而上学は必読の内容だ。
興味ある方はぜひ御一読をおすすめする。
さお
3.Dec 2018