いつから自分が自分であることに気付いただろうか。
最近ふと思うことがあり、そのことを考える時の妙な浮遊感を楽しんでいる。
脳内に過ぎるそれは誰ともわからぬ赤子の顔面のマクロ映像で、周囲は赤ちゃんが泣かないくらいには適温に管理されている。
しかし、居心地が良いというわけでもない。
おそらくそこは病室で、彼は生まれて間もない。
のろまにキョロキョロ周囲を見渡すが、ほとんどぼやけてしまっていて周囲の状況は判然としない。
しかし彼はふと思う、ふと思うような表情を見せる。
「あれ…?」と。
その瞬間に彼は太陽系第三惑星の地表の建屋の一室に、人間の赤ちゃんとして存在している自分を何となく察したはずだ。
名前、生年月日、性別、人種、国籍などを持つ特定の誰かである。
彼は自分が特定の何者かであることに気がつき、そのことについてしげしげと考え耽っているようだった。
生物学的にいえば自我の獲得前の感覚運動期に属する生まれたての赤子である。
通常ならそんなことはまだ考え至らない。
しかし私は刹那的にすべてを察知した彼をモニターしている。
というような妄想である。
BGMも流れている、バンドYo La Tengoが鳴らす不思議な音色のギターを逆再生したような曲だ。
私はその妄想で高まる。
「あぁ!君も気付いてしまったのか!!」と。
これは何ら明確な示唆も教訓も持たない原形質な感覚的脳内映像である。
忙しく慌ただしい時によく思い描く。
その心はつまり何事かに流され行く自分に対する一時停止ではないかと思う節はある。
「いつから今だっけ?」
「いつからこんな俺だっけ?」
という自己認識を促す作業と思われる。
自分が今しているそれが、自分が今属している何かが、自分が今居るそこが、
一体何のためにそうなっているのか?ということのリロードが必要な時がある。
大袈裟に言えば、それをしなければ人生は勝手に進んで死に真っしぐらである。
生きて死ぬのは自分であるが、どう生きて何をしなければならないのかを他人や国家、時代や習慣が決めてしまうことはたくさんある。
と言うよりもむしろ実は自分で決めること、決められることの方が遥かに少ないだろう。
大抵のことは他人のため世のため社会のため時代のために強制されてしまう。
こんなことを書くと世の中に不満を持っているように捉えられてしまうだろうが、たしかに不満はある。
生きていて一つも不満が無い人はいないだろう。
しかし重要なのは不満があることではなく「状況は決して最高ではないが、さて、どうしようか」ということだ。
今自分が置かれている状況と、これから自分が進むべき道筋に対する態度である。
そういった意味で自己認識のリロードは不可欠で、明瞭な意識と正確な認識を呼び覚ます必要がある。
本来の自分自身と、相対的に他人や社会にとっての自分は共にゆっくりではあるが変化し続けている。
同じままでは留まらない。
表面化して気がつくまでは自覚症状も薄いだろう。
意識の通わない生温い日常は平穏で平和だ。
疑問が浮かんで嫌気がさして抜け出してみれば、それが最良だったという結論もよくある話である。
しかしそれを自覚的に選んでないとしたらある種の不幸に属するものだろう。
一歩踏み出すまでは、本当の一歩先もわからない。
一歩踏み出したくらいでは、その一歩の意味も測れない。
生きていくというのはだいたいがこういった具合である。
しかしそういった合理性では測りきれない感性や判断こそが人間の面白さであるとも思う。
年始に際して目覚めのような内容の文句を綴ってみたくなった。
自分で書いていながら「なるほど」と納得してしまう部分もあったし、大半は随分とまた青臭いことを、と苦笑に絶えないような内容であることも承知している。
しかしわかっていても語ることにはそれなりに意味がある。
今どこで何をしているのか。
これからどうしてどこへ行くのか。
それはどんな意味を持ち、どんな結果に至るのか。
そんなことはわかるはずがないのだが、「今この私」がなぜそうあるのかを、せめて言い訳できるくらいには自覚しておこうと思うのだ。
18.Jan 2019
さお